DAILY SHORT COLUMNS - Daily Business - |
2003.12.31 | ■ホスピス: 診療所付きアパート建設へ 東京で医師ら計画(business & life共通) 病室でなく自分の住まいで、自分らしく命をまっとうしたい。そんな願いを実現しようと、ホスピス医らが、往診主体の診療所や介護ステーションを備えたアパートの建設を、東京都小平市の住宅地で進めている。病気や年齢にかかわらず援助が必要な単身者が入居し、近所の住民が集える広場も備える。さまざまな人が助け合いながら自立して生きるイメージは、さしずめ「平成のホスピス長屋」。04年に運営主体の非営利組織(NPO)を設立し、05年秋の始動を目指す。 計画は、桜町病院聖ヨハネホスピス(東京都小金井市桜町)の山崎章郎(ふみお)医師(56)と、コーディネーターの長谷方人(つねと)さん(49)が10年以上温めてきた。 山崎さんは90年に「病院で死ぬということ」(主婦の友社)を出版、尊厳ある死に方とホスピスの意義を訴えた。 一方、長谷さんは父親を肝臓がんでみとった経験をもつ。「悔いのないように生きなさい」という最期の言葉に動かされ、営業マンからホスピス職員に転身した。 「年間350人が外来相談を予約するが、約3分の1は入所を待てずに亡くなる。ホスピスケアを自宅で受けられる仕組みを作りたかった」と長谷さん。03年春、約2600平方メートルの土地を購入し、基本設計を終えた。長谷さんは父親の遺産を提供した。 建物はバリアフリー設計の3階建て。1階に診療所やデイケア室、アトリエなど。2、3階は居住空間で、ワンルームを中心に21戸。共同浴場や食堂もある。ゲートボールやフットサルができる広場も設ける。 完成後は、原則として公的支援を受けず運営する。「ホスピスは、がんとエイズに限られる。がん以外でも、若い人でも、必要な人にケアを届けたい」と山崎さんは話す。 家賃は周辺の賃貸住宅並みにし、年金の範囲内で暮らせるよう配慮する。山崎さんらホスピスケアに通じた専門家が、「長屋」の住人だけでなく、周辺の往診や訪問看護・介護も請け負う。2人は「江戸時代の長屋のように、いろんな人生を生きてきた人たちがいたわりあいながら生きられる場所にしたい」と話す。【元村有希子】 ◇ことば ホスピス 語源は「もてなす」というラテン語。不自然な延命をせず、生命の質を重視する考え方を指す。近年、がん患者らに対し、身体的、精神的な痛みのケアをする施設の呼称として定着し、旧厚生省は90年、「緩和ケア病棟」の名前で制度化した。 〔毎日新聞〕 |
2003.12.27 |
出戻りラッシュVol.29 ある程度予想はできていたものの、やはり空港での社長との直談判はロビーで立ったままで、ものの数分で決着してしまいました。もともと社長の側に私の進言に耳を傾ける意志があるのであれば、それまでにも電話なりFAXなりでも充分に話し合いはできたはずでしたし・・・。 私の話にはほとんど耳を貸さず、社長はともかく自分の指示どおり動いていればいいという主張に終始するばかりで、まったくといってよいほど会話は成立しませんでした。私ももはや後には引きませんでしたから、最後にはお互いに感情的になってしまい、人前であるにもかかわらず乱闘に発展する寸前といったような険悪な雰囲気でした。そのようにして、私は現地のそれも空港のロビーで正式にその会社を退職することになりました。 その頃には既に私への会社からの送金は止まっていましたし、結局退職金はおろか最後の数ヶ月の給与も支払われず、帰国の際の航空券すらも自費での支払いを余儀なくされてしまいました。帰国後法的手段を講じることも考えましたが、もともと渡航の際にはそれ相応の覚悟をしてのことでしたし、もはや私の多岐にわたる実質被害は甚大で公私の境界も曖昧だったうえ、何よりそれから何年にもわたっての後向きな時を過ごすことなどもう辟易といった気持ちでしたから、そのまま放置してしまいました。(続く) |
2003.12.26 |
出戻りラッシュVol.28 驚いたことに、彼はその当時でこそ郊外の小さなファミリーホテルのオーナーとして静かな余生を送っていましたが、以前はヨーロッパ全土に大きな力を有するマフィアネットワークの一員だったのでした。 一度そうした裏世界に足を踏み入れてしまうと、もはや生涯抜け出せないといったようなことをしばしば聞き及びますが、実際のところは彼のようにすっかりと円満に足を洗って気質(かたぎ)の生活を送る人々も珍しくはないのだそうです。 そのナイトクラブでの話し合いの時までに、詳細までは判らずとも私の身辺調査は済ませていたとのことで、その国における私の切迫した状況については既に彼は知り及んでいたのでした。 そこへ私が率直に具体的な経緯と実情を伝えたことで、彼も完全に合点がいったようでしたし、私への信頼感もさらに増したようでした。 それ以降私が最終的に帰国するまでの数ヶ月の間、彼が手配をしてくれた三人のボディーガードが、時々交替をしながら常時私に付かず離れず護衛をしてくれました。もちろん費用を要した訳ではありません。それも念のための措置で、実際のところは裏社会の力のバランスによる圧力をかけてくれていたようで、それ以前の私の安全を脅かしていた不審な影はすっかりと消えましたし、もう襲われることもまったくありませんでした。 それでも一度必要なものを取りにフラット(ワンフロアーを占めるその国で私が居住していたアパートメント)に戻りましたが、それ以外はずっと彼が手配をしてくれた中心街のホテルに滞在をし、そして入国する社長との直談判のために空港に直接向かうことになったのでした。(続く) |
2003.12.25 |
出戻りラッシュVol.27 にわかにそれからの具体的な戦略を立て始めた私の態度や言動の変化を危惧してのことと後に知るのですが、ある日オーナーにわざわざ隣街にあるナイトクラブに誘われました。ナイトクラブとは言っても、そこはまるで日本の田舎の小さな公民館か集会場に舞台を造ってソファーを並べただけといった苦笑してしまうようなところだったのですが・・・。 そこで偶然に出会った彼の友人かと思いきや、これも後に知ったのですが、予想される話題に備えて普段私の通訳をしてくれていた少年の代わりとして彼が事前に手配をしてくれていた彼と同年代の通訳の男性も同席していました。 私をもう息子同然に思ってくれていて、力になれることであればどんなことでもしたいというオーナーの温かい心情が、通訳を介さずとも直接伝わってきて、私は本当に助力を期待してのことではありませんでしたが、一連の経緯の概略と近づきつつある彼らとの別離について通訳を介しつつ彼に率直に伝えたのでした。 しばらく考え込んでいた彼の口をついて出たのは、予想もしえなかった衝撃の事実でしたし、またそれはそれから後何年にもわたって続く彼と彼を通じた大勢の人々との関わりの始まりでもあったのです。(続く) |
2003.12.21 |
出戻りラッシュVol.26 それまでの一瞬たりとも気の抜けない、眠っている間すらも小さな物音に過敏に反応したり、夢と現実の区別もつかなくなるほど神経を張り詰めていた日々がまるでうたかたの夢だったかのように、その郊外の小さなファミリーホテルで私は心安らかな日々を過ごすことができたのでした。 髭も剃らず、髪も伸びるに任せ、勧められるがままに彼らが普段身に付けている民俗衣装をまとい、毎日のように彼らの自宅に招かれたり、逆に時々その土地の食材による和食ライクな料理を振舞ったりしつつ、また彼らの仕事を日常的に手伝ったりもするうちにすっかり家族のような関係になってしまい、もう宿泊費すらも受け取ってもらえなくなってしまいました。 何より有難かったのは、何らか訳ありの私の状況を推し量ってくれてのことだったことを後で知るのですが、オーナー以下スタッフ全員が私の身の上など一切の詮索をしないでいてくれたことでした。約一カ月近くもそこに滞在するうちに、もはや私が外国人であることに気付く人は珍しくなるほどにその土地に馴染んでしまいました。 そのうちに私が在籍していた会社の社長が翌週に入国するという情報が入ってきました。彼との膝を突き合わせての直談判は不可欠との判断でしたから、私はゆったりとした時間の流れの中で、それからの事態収拾のための戦略をじっくりと立て始めたのでした。(続く) |
2003.12.09 |
■「自衛隊行くなら非武装で」 イラク民主化指導者が会見(business & life共通) 来日中のイラクの民主化指導者アブドルアミール・アル・リカービ氏(56)は8日、東京・日比谷のプレスセンタービルで記者会見し、自衛隊派遣について「現状のままでは占領軍と一体化する」として改めて「反対」を表明。小泉首相が約束したメソポタミア湿原の復興事業への支援を国際社会とイラク国民に向けて明らかにすれば「派遣される自衛隊員や支援にかかわる日本人の安全につながるだろう」と述べた。 同氏はその場合でも「自衛隊は非武装で派遣されるべきだ」とした。自衛隊員が正当防衛でイラク人を殺傷する可能性についての質問に、「武装してよその国に来て正当防衛などありえない」と強調した。 |
2003.12.06 |
●「戦争には絶対反対、耐えられぬ人の死」 戦争には徹頭徹尾反対する。戦争はよくない。戦争をしたがるのはアメリカの政府であって、国民ではない。どの国の国民だろうと、生身の人間。その人間がつまらん理由で殺されるのには耐えられない。 私は老いぼれだが、まだ現役だ。でも、イラクには行かない。このよくない戦争に巻き込まれたくないからだ。だれも他国の人々に、その国をどうするか指図する権利はない。米国は独裁者になってはいけない。 65年にカメラマンとして初めてベトナムに派遣されたとき、私は心底愛国的で戦争支持だった。米国は正しいと信じていた。「悪いやつは皆やっちまえ」と血がたぎって。 2週間の派遣のはずがちょうど米海兵隊のダナン上陸があり、帰国したのはほぼ1年後。米国に1カ月ほどいたが、家族を除けば、だれもベトナムで死んでいく兵士たちのことを気にかけない。 ベトナムでけがをした松葉づえの元兵士を、タクシーがひきそうになる。「何だこれは」。アメリカってやつが分からなくなった。だから、ベトナムに戻ったんだ。 戦争への見方が変わり始めた。アメリカ人もベトナム人も命の重さは同じと気づいた。 最後にベトナム戦争を撮ったのは68年。戦争は無意味でばかげたことだと分かっていた。とはいえ、頭を撃ち抜く瞬間を撮ったのは、ただ私がそこにいたから。写真はベトナム戦争批判を強めたが、その意味を理解したのはピュリツァー賞を取ってからのことだ。 イラクとベトナム。よく似ている。ちょうどベトナム戦争下のカンボジアで教一(ピュリツァー賞写真家・沢田教一)が狙撃されたように、イラクでも各地で誰何(すいか)なしの攻撃が続いている。たぶん、米軍が撤退するまで続くだろう。 しかも、サイゴン(現ホーチミン市)では人々は米兵に温かかった。ベトコンが交じっていると知っていたが、それでも心地よかった。それがイラクではどうだ。 ベトナムで米国は多くの教訓を得た。それが、イラクにまったく生かされていない。 例えば65年に私が会った米海兵隊の将軍は、「ベトナムでは勝てない」と断言していた。ゲリラ戦に対応するにはあまりに兵士が少なく、もし十分に兵がいても勝利まで15〜20年はかかるというのだ。イラクでも現地をよく知れば、こうした判断になる。 戦争取材は湾岸戦争(91年)まで続けた。世界中の難民キャンプを訪ねた。いま、世界の有名人を専門に撮るのは、泣きながら仕事をするのが嫌だから。レンズを通して彼らの痛みを感じて泣いた。「もう、たくさんだ。こんなのは撮れない」と言いながら、仕事をするのはもう嫌なんだ。 ◇ ◇ ◆エディ・アダムズ氏 米ペンシルベニア州生まれ、70歳。AP通信、タイム誌を経てフリーに。これまで約500の賞を受けた。撮影した国家元首は70人近い。ニューヨーク市内にスタジオを構え、郊外に後進育成のための研修所も設ける。今年、若手カメラマンのため、友人だった沢田教一にちなんだ賞などを創設した。 ◇ ◇ 《キーワード》ベトナム戦争 60年の南ベトナム解放民族戦線結成に対し、米軍は62年、サイゴンに援助軍司令部を置いて公然と介入し、第2次インドシナ戦争が始まった。64年8月のトンキン湾事件を機に翌65年2月、北爆を開始。米軍は当初、戦況に自信を示したが、68年1月の解放戦線と北ベトナム軍による8万人を動員した「テト攻勢」で戦況が逆転。ゲリラ攻撃に苦しめられ、73年1月のパリ和平協定で撤退した。75年4月30日のサイゴン陥落で戦争は終結。死者数は米軍5万8千人、ベトナム側は200万〜300万人といわれている。 〔朝日新聞〕 |
2003.12.02 |
■【殉職 日本人外交官】2人が担った「多くのこと」 テロとの戦い「何をためらう」(business & life共通) 事件発生から二日以上経過した二日未明(日本時間)にいたってもなお、情報は錯綜(さくそう)している。イラク中部で日本人外交官ら三人が銃撃されて殺害された事件で、外務省には、現地警察からの「車で走行中に銃撃を受け、道路脇にそれて止まった」との複数の目撃者情報と、米軍からの「道路脇の売店で水などを買おうとしたところを襲われた」という二つの情報が伝えられた。どちらが正しいのか、状況はまだ正確には分からない。だが、「日本の宝」(岡本行夫・首相補佐官)は失われた。その事実を私たちは受け止めなければならない。 イラクでは、断食月のラマダンが始まったばかりの十月二十七日から、NHKの朝の連続テレビ小説「おしん」が放映されている。平成四年に放映したエジプト国営放送に協力を依頼し、テープをダビング。ヨルダン経由で輸送したものだ。 この放映の仕掛け人が在英国大使館の奥克彦参事官(四五)だった。奥さんは今年六月、NHK出身の外務報道官の高島肇久さんにメールで持ち掛けた。「…イラクのように歴史があって国民の知的レベルの高い国は、やはり文化交流だと思います。(中略)今は米軍もそんな余裕は全くありません」 高島さんは「本能的に、おしんならイラクの人たちにも訴えかけるものがあると分かったのでは。日本を強く意識しイラクの人たちに何が一番役に立つか、日本式で何かできるはずと考えていたからでしょう」と話す。 ■■ 奥さんが、クウェートからバグダッド入りしたのは、今年四月二十三日。三日後、在イラク大使館の井ノ上正盛書記官(三〇)が合流した。 〈参事官は課長級職員。書記官は一等、二等、三等に分かれ、主に当地の情勢分析、通訳業務が主な仕事〉 奥さんと井ノ上さんが派遣されていたのは、米国防総省の組織で、イラク復興支援の行政・民生部門を担う復興人道支援機構(ORHA)。 ORHAは六月初旬に、イラク人による政権が樹立されるまでの暫定統治を目的とする連合軍暫定当局(CPA)に統合された。 外務省のホームページ(HP)に奥さんが連載していた「イラク便り」によると、二人は学校を視察して日本ができる効果的な支援の内容を検討したり、小麦など「基礎食料品」の値段が高騰しないよう配給システムを維持するなど多忙な日々を送っていた。 事件当日、出席するはずだったイラク中部ティクリートでの会議はCPAの民生部門主催で、そこで日本政府として地域のニーズを把握することが目的だった。 奥さんと井ノ上さんはORHAの本部のあったチグリス川流域にあるサダム・フセイン宮殿内に米軍関係者らと住みこんでいた。奥さんによると、建物だけでも「赤坂の迎賓館の三倍」近いが、水も電気もなく、腐臭が強く砂埃(すなぼこり)がひどった。ホテルで暮らすことも可能だったが奥さんの同期入省の泉裕泰・在外公館課長(四六)は「あえてアメリカ側の懐に飛び込むことが大事だと分かっていたからそういう生活を選択したのだと思う」と説明する。二人がバグダッド市内のラシード・ホテルに生活の拠点を移したのは、七月末になってからだ。 経済産業省技術協力課の根井寿規課長(四五)は、資源エネルギー庁の石油精製備 蓄課長だった今年五月にイラクを訪れ、十日間、二人とベッドを並べて過ごした。 ある日、奥さんは、クウェートから持ち込んだ炊飯器を見せ、「これからご飯を炊くから一緒に食べよう。日本人は米の飯を食ったら元気が出る」と、どこからか入手したわずかな米を使い、ふりかけつきの「歓迎会」を開いてくれたという。 ■■ ≪自衛隊の姿なく…さびしさ吐露≫ 奥さんは、「イラク便り」のなかで、フセイン大統領の圧政から解放された住民の安堵(あんど)の声や日本の援助に対する期待の高さをしきりに語った。「イラク国内には何カ国の部隊が駐留しているでしょうか」などと、そこに自衛隊の姿がないことに“さびしさ”を吐露することも。 八月中旬に在バグダッド国連事務所で起きた爆弾テロ現場では、犠牲になった旧知の国連職員の名刺を発見して、「『日本の友人たちよ』…『何をためらっているんだ。やることがあるじゃないか』と語りかけてくる」と自らを奮い立たせた。そしてテロが続発するにつれて嘆き、テロに対する怒りの声が目立ってくる。 二人の警備が万全でなかったことが論議を呼んでいる。奥さんの同期入省の山田彰・経済協力局無償資金協力課長(四五)は「奥さんは防弾チョッキを着ることは、イラク人にとってお前らを信用していないというふうにみえるので着ない、と話していた」という。 一日、外務省内で行われた追悼式で、竹内行夫・外務事務次官は「これほど多くのことを、こんなに少数の人が担ってきた」と述べた。 ■■ ≪「家族会えぬ辛さ、米兵も」≫ 「(米陸軍の)82空挺(くうてい)団の面々も来年3月までには故郷に帰る目処(めど)が付いたようで、『あと少しの辛抱で家族に会える』と皆、遠く離れた家族を思って感謝祭の夜を過ごしていました」 イラクで殺害された在英国大使館参事官の奥克彦さん(四五)が外務省のホームページ(HP)で連載を続けていた「イラク便り」。一日、七十一回目となる「最終回」の遺稿が掲載された。 題は「感謝祭とラマダン明けの休み」。十一月二十七日付で送られてきた原稿を外務省国内広報課が受け取ったのは週末の二十八日朝。従来ならチェックなどで掲載までに数日かかることもあるが、今回の悲劇を受けて、できるだけ早く掲載するために一日朝から作業に取り掛かった。 HPで奥さんは、米国の感謝祭の歴史を紹介し、イラクでその夜を楽しむ米陸軍第82空挺団と、さらに断食月ラマダン明けの大祭の日のバグダッドの様子を記している。米軍の兵士が家族に寄せる思いに、自らの気持ちを重ね合わせているようにも読める。 外務省によると、奥さんは事件が発生した二十九日の翌日三十日夜に、アンマン経由で、本来の任地であり、家族のいる英国にいったん戻るはずだった。 「最初の読者として生の現地のリポートを楽しみにしていました。それがこういった事情になってしまって…」と、同省で「イラク便り」を担当してきた進藤康治さん(三五)は、肩を落とした。 同期入省の同僚に「イラク復興支援では日本が試されている。長期的な国益のためにはやることはたくさんある」と熱っぽく語っていた奥さん。 「おれは危険がないなんて一言も言っていない。危険を回避するために可能な限りのことをする。ただ、リスクがあってもやらなければならないこともある」。こう話していた奥さんの姿が、同僚のまぶたに焼き付いている。 ■■ 「アラブは本当に偉大だよ」。もう一人の「殉職外交官」となった在イラク大使館書記官の井ノ上正盛さん(三〇)の口癖だ。得意のアラビア語を駆使してイラク復興支援に献身的な努力をしていた井ノ上さんは、自らの青春をかけたアラブの大地で短すぎる生涯を終えた。 外務省に入省後、シリアでのアラビア語研修のため三年間、井ノ上さんと一緒に過ごした石川博崇(ひろたか)さん(三〇)=在オマーン大使館勤務=は一時帰国中に大阪で同期生の悲報を聞いた。 アラビア語の研修は、大学などの教育機関に入学するわけではない。シリアの首都、ダマスカスで、元医師の「家庭教師」の家に毎日のように通って、発音、文法、会話、読解のレッスンを受けた。さらに“暮らし”を通じて、アラブの歴史や文化、人々の考え方や気質を理解していった。 「井ノ上はアラブ人の心のひだまで分かった。相手の懐に入って、本音を聞きだせたのは流暢(りゅうちょう)なアラビア語が話せたからだ。アラビア語の標準語だけでなく、方言も積極的に学んでいた。アラブの民衆の中に入っていくことが大好きな男だった」 日本はその彼を失った。「悔しい。胸が詰まる。でも、彼が歩んできた道を自分もまた歩んでいくことで、友情と彼の遺志を大切にしたい」と石川さん。「アラブの大地に骨を埋めたい」と話していた井ノ上さんの夢は受け継がれていく。 ■■ 国際貢献にかかわる人たちの死。今回の事件は、過去の「殉職者」の遺族の心も揺さぶった。 平成十年七月、国連タジキスタン監視団(UNMOT)の政務官として滞在中にイスラム反政府勢力に射殺された国際政治学者、秋野豊さん=当時(四八)=の妻、洋子さんは「五年前と同じ状況。見たくもないのに、ずっとニュースを見てしまう。あの時を思いだし、とても冷静に話すことはできません」と言葉を詰まらせる。 「国民一人ひとりが、日ごろから問題意識を持って考えなければいけなかった。引くに引けない状況になってから考えても遅く、ただただ流されてしまう。一人ひとりが、自分の生きている地域から少しずつ範囲を広げ、世界とどうかかわっていくかを考えてくれることを望みます」と涙声で話した。 〔産経新聞〕
いつの間に私たちは、ここまで来てしまったのだろう。二人の日本人外交官がイラクで無残に殺された現実を前に「ひるむな」「テロに屈するな」と勇ましいことばがりあちこちで語られる。自衛隊のイラク派遣計画は、その是非をめぐる十分な議論が行われたとも思えないのに、二人の事件後も「いつ決めるか」「いつ出すか」と時期だけが関心事になっている。「ひるまず進め」というムード作りだけに二人の死が使われるとすれば、異論がある。 亡くなった奥克彦参事官は今年8月、テロで破壊された国連バグダッド事務所を訪れ「イラク便り」に「残った我々が一層力を合わせてイラクの復興に尽力することが、せめてもの餞(はなむけ)でしょう」と記した。一緒にいた岡本行夫首相補佐官に「これを見て引けますか!」と声をあげた、という。 胸を打つこうしたことばの断片が独り歩きし、「遺志を継ぐ」=「自衛隊派遣」と単純に解釈されてしまうのは怖い。 外交専門誌「外交フォーラム」11月号への寄稿を読むと、奥さんが国連の役割に大きな期待を抱いていたことがわかる。 「(イラクの)重荷を米国と一部の連合参加国だけでは、いずれ背負い切れなくなるでしょう。その時、国連という機関の役割が必ずや大きくなってきます」。米国と国連が相互補完関係に立って協力する必要を説いていた。 奥さんが残したことばを「錦の御旗(みはた)」に掲げ、遺志の解釈争いをするわけではない。しかし「『国際社会とテロとの戦い』という構図をイラク復興の中で確立する」という彼の発想は興味深い。 反米武装勢力の狙いは「反米イスラム対親米有志連合」という対立図式でイラクを戦場化することだろう。世界にイラクの現状をいかに認識させるかのイメージ戦争において、ブッシュ米政権は反米勢力に先手をとられている。外国人や米兵が次々に殺される現状を「民主化のためにやむをえない犠牲」とはだれも受け入れない。 この状況では、国連の復権が対立の構図を変える契機になるのではないか。米英占領当局(CPA)を解散し、国連の暫定統治に切り替え、イラク人政府を育てる。「国際社会とテロとの戦い」という新しい構図はそうでもしないと生まれない。 日本政府は近く自衛隊派遣を閣議で決定するという。いま私たちが考えるべきなのは「自衛隊を年内に出すか」という点ではない。「米国の一極支配に世界の平和と日本の安全を委ねる道」を日本が国家路線として選ぶか否かの選択だろう。 世界にはその道を選んだ国もある。だが、国連の役割を重視し、有志連合に入ろうとしない国もある。自衛隊派遣決定は有志連合の中核に加わり、大きく一線を越えて踏み出す意味がある。その重さをもう一度とらえたい。毎日新聞の世論調査では「可能な限り早く派遣すべきだ」と答えた人は9%だけだった。 気がつけば、違う時代にするすると引きずり込まれていたという事態を避けるために、二人の死に立ちすくみ、考え込む「勇気」を持つ時だ。【外信部長・中井良則】 〔毎日新聞〕 |