DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life -

 
   
2004.06.26
日々回復不能

人事にせよ、死にせよ、いずれも「なかったことにする」ことは出来ません。死は回復不能です。一度殺した蠅を生き返らせることはできません。

だから人を殺してはいけないし、安易に自殺してはいけない。安楽死をはじめ、死に関することを簡単に考えないほうがよい。

しかし、原則でいえば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです。

ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日には無くなるのですから。

人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。

そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです。

〔「死の壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.25

慌てるな

私は自殺したいと思ったことはありません。簡単にいえば、「どうせ死ぬんだから慌てるんじゃねえ」というのが私の結論です。こう言うと「どうせ死ぬんだから今死んでもいいじゃないか」という奴がいるかもしれませんが、それは論理として成立していない。なぜなら、それは「どうせ腹が減るから喰うのをやめよう」「どうせ汚れるから掃除しない」というのと同じことだからです。

〔「死の壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.21

軍国主義者は戦争を知らない

ただし、それとは別の分析や総括が必要だったのではないかと思うのです。クラウゼヴィッツが『戦争論』で書いている通り、戦争に外交の手段という側面は間違いなく存在しているのです。しかし、日本人にはその感覚が無さすぎた。

だから「軍国主義」に走ったのです。おかしなことを言っていると思われるかもしれませんが、つまり「外交」が抜け落ちて軍だけが走ってしまったということです。政治の一手段だったはずの戦争が、むしろ逆に目的になってしまった。

太平洋戦争で勝って行くうちに、どこが引きどころだかわからなくなったのは、そういうことなのです。石油資源の確保ということで考えれば、南方を押さえた時点で終わっていたでしょうし、国際社会が満州を認めてくれているときにやめてもよかった。しかし、すでに外交手段ではなくて、戦争そのものが目的化したから引き際がわからなくなったのだと思います。

〔「死の壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.18

もちろん、日常生活のなかで「あの時は考えが足りなかった」と反省をするということは悪いことではありません。「男を見る眼がなかった」という人もたくさんいることでしょう。

ここで問題にしているのはそういうことではなくて、「あの時の自分は、本当の自分ではなかった。本当の自分を見失っていた」という理屈です。

そんなことはあり得ないのです。今、そこにいるお前はお前だろう、それ以外のお前なんてどこにいるんだ、ということなのです。「自分探し」などと言いますが、「本当の自分」を見つけるのは実に簡単です。

今そこにいるのです。

〔「死の壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.16

駅は人と人との交差点Vol.5

三児の母となった彼女は、外見は相当に変わって落ち着いた雰囲気でした。私が知っている彼女は、その制服姿をはじめ十代のままだったわけですから、そう感じてしまうのも無理はありません。しかし、一度喋り始めれば、十年もの時の流れを飛び越えて、すっかりとあの頃のキャピキャピ少女に戻ってしまっていました。

翌日早朝のアポイントに備えての前日の移動でしたから、私はまったく急いでいませんでしたし、彼女も一時間くらいなら余裕があるとのことでしたから、私達は駅ビルの中のカフェで旧交を温めたのでした。

第三者からは父親としての私を含めて一つの家族に映ったことでしょう、事実私はほとんどの場合、子どもや年輩の女性そして動物には親しまれるのですが、その時も案の定、長男と普段は人見知りをするのだという次女が、ものの10分ほどの間にすっかりとなついてしまい、私の両側にぴったりと身を寄せていたのですから。

私はあれこれと二人の世話を焼いたりじゃれ合ったりしながら、十年前と同じように一方的に明るく元気に喋り続ける彼女の近況を聞きながら、これまでも時々そうして束の間のデートをしてきていたような錯覚に陥ってしまいました。

そうこうするうちに、あっという間に一時間半が過ぎ去り、私達はまたお互いの連絡先を教え合って別れたのでした。〔続く)


2004.06.12

駅は人と人との交差点Vol.4

彼女からの電話連絡があって以来、また蘇ってしまったあの事件当日別れ際の驚き、そうです、何故その痴漢男性の目の前でスカートをめくりあげていたのかというずっと気にかかっていた疑問を、まず彼女に尋ねてみたのです。

驚いたことに、それは単純にこれをもう最後にしなさいという意味だったと言うのです。当初あれほどの怒り爆発状態だった彼女がどうしてそんな行動に出られるのか・・・、ただそういう気持ちになったというだけで、彼女自身が自らの心の内を明晰に認識できてはいなかったのでした。

自ら痴漢男性を徹底糾弾して、怒りは憐れみに変わっていったこと、それでも最終的には、世の同性達のためにも、また彼女の父親よりも年長である痴漢男性本人のためにも、ともかくそれを最後にさせたいという気持ちからの行動だったというのですから、いやはや何とも不可解な発想です。

それから小一時間ほどの世間話から、興味深くも不可思議な様々な彼女の話を聞いてその日は別れたのですが、それからも時々彼女から連絡があって、何度か私達は食事をしたりしていたのです。しかし、やがてそうした関係も自然消滅してしまっていたのでした。(続く)


2004.06.11

欲望としての兵器

欲にはいろいろ種類がある。例えば、食欲とか性欲というのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。これは動物だって持っている欲です。ところが、人間の脳が大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限がないものになった。

金についての欲がその典型です。キリがない。要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけないのかもしれない。

近代の戦争は、ある意味で欲望が暴走した状態です。それは原因の点で、金銭欲とか権力への欲望が顕在化したものだから、ということだけではない。手段の点において、欲が暴走した状態である。

なぜなら、戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。破壊された状況をわざわざ見にいくミサイルの射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。死体を見なくてもよい。

原爆にいたってはその典型です。「おまえがやったことだよ」とその場所を、爆破後一日たって見せてあげたら、普通はどんなパイロットだって爆弾を落としたがらなくなるでしょう。何せ何万、何十万という被害者が目の前に転がっているのですから。

その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのは、その方向に進んでいる。ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接、働いていた。目の前にいる敵を刺せば、その感触は手に伝わり、血しぶきが己にかかり、敵は目の前で倒れていく。

異常者でもなければ、それに快感を感じることはない。だからこそ、武器は出来るだけ身体から離していきたい。その欲望を実現していき、結果として、武器による被害の規模は大きくなっていくばかりです。

〔「バカの壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.10

欲をどう抑制するのか

人間をどういう状態に置いたら一番幸せなのか、ということは、政治が一番考えていくべきテーマです。実際には学者、哲学者が議論することが多いようにも思えますが、これにはあまり意味が無い。しみじみ思うのですが、学者はどうしても、人間がどこまで物を理解できるかということを追求していく。言ってみれば、人間はどこまで利口かということを追いかける作業を仕事としている。逆に、政治家は、人間はどこまでバカかというのを読み切らないといけない。

しかし、大体、相手を利口だと思って説教しても駄目なのです。どのくらいバカかということが、はっきり見えていないと説教、説得は出来ない。相手を動かせない。従って、多分、政治家は務まらない。

このように、学者と政治家とはまったく反対の性質を持っている。学者が政治をやってうまくいくわけがないというのは、人間を見損なう、読み損なうことになりがちだからです。

つまり、プラトンが言うところの「哲人政治」というものは成り立たない。なぜなら、プラトンは学者だから、人間、どこまで利口かということを考えて、利口な人に任せたらいい、と考える。

しかし、現実はそうではない。多数を占めているいるのは普通の人だから、普通の人がどの程度で丁度いいのかをしっかり見据えておかないと、間違ったほうへ行ってしまう。

〔「バカの壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.09

欲をどう抑制するのか

私が、昔のことを何度も持ち出すのは、昔の人は、そういうことを考えていたからです。まず、考えられてきたのは欲の問題。欲というのは、現代社会ではあまり真剣に議論されていない。欲を欲だと思っていない人が非常に多い。欲を正義だと思っている。

要するに、人間の欲を善だというふうにしてしまうと、行き着く先は、鈴木宗男氏とか、いわゆる金権政治家みたいになってしまう。

欲というのは単純に性欲とか食欲とか名誉欲とかではなく、あらゆる物は欲だといえる。権力指向ももちろん欲の表れでしょうが、学問では、それが理屈とか思想という形で出ているのです。ジャーナリズムにおいても、ある意味では多くの人の意見を自分たちの考えで統一しようという欲が裏にある。

結局、そう考えていくと、全てのものの背景には欲がある。その欲を、ほどほどにせいというのが仏教の一番いい教えなのです。誰でも欲を持っているので、それがなければ人類が滅びてしまうのがわかっている。しかしそれを野放図にやるのは駄目だ、と。

〔「バカの壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.08

カーストはワークシェアリング

日本を始めとした先進国とは逆に、インドは、まったく合理化しないという方策をとっています。極端にいえば、鉛筆を落としても落とした人は拾わない。別にこれを拾う階層がいる。

これは、最近の言葉でいうところの「ワークシェアリング」が行われているということです。実はカースト制というのは完全ワークシェアリングです。本来なら一人でやれるような仕事を細分化して、それぞれの階層に割り振っているのですから。インドではそういうワークシェアリングを固定してしまった。

もちろんそれを日本に導入しろと言うのではありません。しかし我々は、何をどうシェアすべきかを真面目に考えるべきです。これは所得の再配分というふうに言いかえてもいいのですが、それだけではなくて仕事の配分をしなくてはいけない。

純粋に機能主義をとれば、その人でなくては出来ないことというのが、仕事によっては確かに存在している。その人にそれをやらせるとしても、それに対してどれだけの人がそれをサポートして、そこから上がってくる収入なら収入をどういうふうに分配するかというのが、これからの社会の公平性を保つ上で非常に大きな問題です。

〔「バカの壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.07

私は、一つのヒントとなるのは「人生には意味がある」という考え方だと思っています。アウシュビッツの強制収容所に収容されていた経験を持つV・E・フランクルという心理学者がいます。彼は収容所での体験を書いた『夜と霧』(みすず書房)や『意味への意志』『〈生きる意味〉を求めて』(春秋社)など、多数の著作を残している。

そうした著作や講演のなかで、彼は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そして、「意味は外部にある」と言っている。「自己表現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。

〔「バカの壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.06

文武両道

ここで言えるのは、基本的に人間は学習するロボットだ、ということ。それも外部出力を伴う学習である、ということです。

「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。数学の問題を考えるというのは、こういう脳内での入出力の繰り返しになる。

ところが往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。身体を忘れている、というのはそういうことです。

江戸時代は、脳中心ま都市社会という点で非常に現在に似ています。江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一(ちごうごういつ)」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。

しかしこれは、「知ったことが出力されないと意味が無い」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。

〔「バカの壁/養老孟司著」の一節より〕


2004.06.03

■小6同級生殺害:
急速に子供の世界に広がるインターネット

 「うぜークラス」「下品な愚民や」。長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の御手洗怜美(さとみ)さん(12)の首をカッターで切り死亡させた同級生の女児(11)は、自分のホームページに同級生たちへの憤りを書き込んでいた。「どこにでもいる普通の子」(捜査関係者)とネット上のギャップ−−。「前思春期」といわれる怜美さん世代をはじめ、急速に子供の世界に広がるネットは、親の知らないところで、幼い心理や人間関係にさまざまな影響を及ぼしている。【柴沼均、山本建】

 ◇急増するネット利用

 総務省によると、6〜12歳の子供のネット利用率は62%(昨年末現在)に上り、前年の53%より9ポイントも増えた。教育現場のネット化が背景とみられる。

 小学校では02年4月施行の学習指導要領で「情報通信ネットワークなどの情報手段に慣れ親しむ」と盛り込まれ、生活科や総合学習、社会科などでネットについての授業が行われている。中学校では02年度から技術家庭で、高校は03年度から「情報」としてそれぞれ必修科目になっている。

 国のe−Japan計画により、02年度には99・5%の公立学校にパソコンが設置された。05年度までにすべての教室でインターネットに接続できるようになる予定だ。

 一方、子供のネット化に大人がついていけない現状もある。日本PTA全国協議会が昨年11〜12月に全国の小5、中2の子供を持つ親を対象に行った調査によると、ネットに関する知識が「子供の方がある」と答えた親は36%で「親の方がある」の25%より多かった。2年前の調査では「親の方」が51%と過半数を占めており、わずか2年で逆転した。

 ◇ストレス解消エスカレート 

「子供たちのコミュニケーション能力が全般的に落ちている上、ネットだと細かいニュアンスが伝わらない。最初は書き込みでストレスを解消していたが、だんだんエスカレートして、バーチャルではとどまらなくなった可能性もある」

 今回の事件について、ネットと事件に詳しい岡村久道弁護士は一般論とした上で指摘する。匿名掲示板が流行し、携帯電話で簡単にメールを送れるようになった90年代末が少年事件での分岐点という。

 00年5月、佐賀県でバスジャック事件では過激な言葉で「犯行予告」が「2ちゃんねる」に書き込まれた。その9日後、横浜市内の私立高校生が「バスジャックなど甘い」とネットに書き、JR根岸線の車内で見知らぬ男性をハンマーで殴った。01年12月には、やはりネットで予告して、JR新宿駅前で少年が包丁で男性を人質にし、03年8月には東大阪市の高校生が「小学生を襲撃する」と書き込み逮捕されるなどの事件が起きている。

 問題のあるサイトに対して子供たちは無防備だ。大手セキュリティー会社「シマンテック」の調査によると、44%の親が「子供が不適切なサイトにアクセスする」ことに何にも対策をしていないと回答。問題のあるサイトに接続させないサービスもあるが、親の認知度は低い。

 ◇キレやすい子供

 ネットなどによる子供の脳や心への影響を指摘する研究者も多い。

 川崎医科大(岡山県)の片岡直樹教授(小児科)はインターネットや携帯メールにはまる子どもの共通点として「他人との関係をうまく作れない」ことを挙げる。「こうして育った子は直接的な人との関係を結ぶのが苦手なため、短絡的でキレやすくなる」という。

 片岡さんによると、そうした子どもの多くは2歳ごろまでテレビがつけっぱなしの部屋で育ち、親との対話が少なかったことが特徴。現在、出生児の5人に1人以上がテレビづけの環境で育っているといい、「2歳までに身についた習慣は、コミュニケーション能力の不足という形で、その後の人生に大きな影響を与える」と指摘する。

 日本小児科学会は昨年、全国の1歳半の幼児1900人を対象に、テレビ・ビデオの視聴時間と言語発達との関係を調査した。毎日4時間以上テレビを見る幼児は4時間未満の幼児に比べて意味のある言葉をしゃべらない割合が高いことを明らかにした。

 同学会は(1)2歳以下の子どもにはテレビ・ビデオを長時間見せない(2)親が一緒に見て子に語りかける(3)食事中にはテレビをつけない−−などを提言している。

 ◇牟田武生氏の話

 「ネット依存の恐怖」などの著書があるNPO法人「教育研究所」の牟田武生理事長(57)は「加害女児と怜美さんは、ひんぱんにチャットメールのやりとりをしていたというが、加害女児は、メールのやりとりなどで“自分が大切にしているものを汚された”というような感覚を持ったのではないか」と指摘する。さらに「最近は小学生でも『おはよう』から『おやすみ』まで、メールをする子どもが多い。現実社会で充足感が得られなくて、寂しさとか空虚な感じを持っていると、こうした関係や自分の内的世界を聖域のようにとらえ、汚されたくない、壊されたくない、という感覚を持つようになる。すると、相手を縛り付けたいといった心理が出てきて、周囲から見ると“こんなことが”と思えるようなことでも、過敏に反応する傾向がある」と話す。【和田明美】

 ◇前思春期

 小学6年生を含む10歳から13歳ぐらいは「前思春期」と呼ばれる。食生活の向上などから体の発達が先行し、特にこの年代で心と体のバランスが崩れたと指摘される。動機を容易には理解できない事件もこの年代で目立ち始めている。

 95年3月、小6男児(11)が同級生(12)を包丁で刺して負傷させる事件が大分市で起きた。2人は直前まで自転車とサッカーボールを公園に持ち寄って遊んでいた。「自転車を返して」という同級生の頼みを男児が拒否。同級生が怒ってけったボールが男児の胸に当たった。男児は自宅から包丁を持ち出し、同級生を刺したという。

 「前思春期の特徴は、密閉された友人関係を求め、いったん亀裂が生じるとすべてが失われた気持ちになり、一転してひどい憎悪を抱くことが多い点だ」と小林剛・武庫川女子大大学院教授(臨床教育学)は指摘。対人関係が十分育たないまま、この前思春期を迎える子供が増えているという。通常、小学3〜4年のころ、意見の違う集団の中で遊ぶことで対人関係は培われるが、小林教授の研究室の調査では、この時期の子供の4割が「友達とあまり遊んでいない」と答えた。「対人関係が希薄だと、いきなり行動に出てしまう。幼児期の子育て段階から、対人関係を見直していく必要があるのではないか」と語る。【木戸哲、北川仁士】

〔毎日新聞〕


2004.06.02


駅は人と人との交差点Vol.3

その後一週間ほど過ぎた頃だったでしょうか。もうその事件のことも忘れかけてしまっていた私に、彼女から相談があるので時間をつくってほしいという連絡があり、私達はその事件の現場で待ち合わせをしたのでした。

事件の現場での待ち合わせに何か特別な意味があるのかと私自身も勘ぐってしまいましたが、彼女は単にプラクティカルに共通の説明不要な場所として指定しただけのことでしたので、待ち合わせた私達はそのまますぐに地上に出て、たまたま目に付いた喫茶店に入りました。

結局告訴はしないことを彼女から聞き、免許証の返し方や何らか念書のようなものをとる必要性などについての相談を受けたのですが、そうした事件関連の会話はものの5分程度で終わってしまい、それから私達は世間話を始めてしまったのでした。(続く)