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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Business!?-

■□■第22号■□■

≪CONSIDERATION≫

21世紀を生き抜く負けないビジネス・その3
〜何も始めないほうがいい。でも一度始めてしまったら、最後までやり通すしかない。
「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」/その4


多くの人達にとって、自らの内なる心の声に忠実に順って第三者の相対的価値基準に惑わされることなく自らの絶対的価値基準を確立していくことがなかなかに難しい業であることは、やはり否定できない現実です。

誤解や反論を畏れず断言してしまえば、それはただ最初の一歩を踏み出す勇気の有無だけの差でしかないのにもかかわらず、その一歩を実際に踏み出したあるいは踏み出そうとする人達と、そうでない躊躇あるいは否定をしてしまっている人達との間には、天と地ほどもの差が存在し、その格差は解消されるどころか日々増大していくことになります。

絶対的価値基準に順じるという、すべての言動が自らと周囲の第三者やひいては社会全体に相互理解と尊重の輪を拡げていくことで信頼や愛と平和につながっていく在り様と、相対的価値基準に縛られるという、すべての言動が自らにも周囲の第三者にもそして社会全体にも無知や曲解と否定の波紋を拡げてしまうことで不信や妬みと憎しみや争いにつながってしまう在り様との間には、善と悪と言ってしまっても過言ではないほどの雲泥の相違があるのです。

つまるところ、現状の閉塞した社会状況を打破し、希望や可能性に満ちた公正かつ公平な未来社会を築いていくためには、まずは私達一人一人が自らの内なる心の声に順い絶対的価値基準を確立していくところからしか路は開けてはいかないのですから、畏れず勇気を持って最初の一歩を踏み出しつつ第三者の第一歩も暖かく見護りながら、自らと周囲の第三者やひいては社会全体に相互理解と尊重の輪を拡げていくことで信頼や愛と平和につなげていかねばなりません。

第三者や社会のために生きる重要性に言及しているわけではありません。自らの生を救うことができるのは自分自身だけなのですし、自らの幸福を追求していく過程において、まずは心から愛する身近な第三者から、そしてひいては社会全体に対しての理解と尊重を深めていくことを優先していく必然性に言及しているのです。

自らを尊重し幸福に導く準備のできていない人物が、どうして愛する身近な第三者を尊重し幸福な関係を築くことが、そして相容れない第三者との干渉し合わないという消極的尊重によるお互いにとっての適切な距離をはかることが、さらに社会全体に対して肯定的視点から尊重と協調の輪を拡げていくことなどできようはずもありません。

まずは自らの直感とイマジネーションによる絶対的価値の創造、そして第三者と社会に対しての優先的尊重による客体的価値との相対的融合を経て、最終的に自我の実現に至る・・・、この順序を見誤ってしまったのでは、如何なる日々の努力も報われることなく、誰も喜ばないネガティブなパラドックスの奥底を永々と逡巡し続ける他はありません。(続く)


≪EPISODE≫

▼Failure
 >file#3-7
  〜出戻りラッシュ・その7


それは、肝心のこの事業のキーパーソンとなるはずの彼女の翻意でした。

直接の原因は、彼女の退職願いの提出ににわかに慌てた会社が、彼女の役職の本部長待遇への二階級特進とそれに伴う報酬の倍増という条件を呈示してきたことでした。

明らかに彼女の気持ちが揺れ動いていることは、容易に見てとれました。彼女自身は口先では退職を留保する意志がないことを表明していましたが、本当にリクルートの決意が固いのであれば、そもそもそうした状況の変化を私達に伝える必要もないことです。

勿論彼女のリクルートを前提として私達の事業も既に始動してしまっているのですから、そうした一個人としての事情の変化など考慮すべきではないのが経営者としての常識だとは認識しつつも、私は常に人の為に組織はあるべしという理念を何事においても根幹に据えていますし、ビジネスの世界においても日常生活においても、人間関係の上では心からの納得と覚悟を有していない相手とは、いずれ時間の問題で破綻に至ることを私はそれまでにも充分に学習していましたから、深く失望しつつもその時点で彼女にはきっぱりとふん切りを付けてしまいました。

それからもはや私には空々しいばかりの彼女にとっての紆余曲折の後、結局当然の如くリクルートは取り止めになりました。

そんな事態を受けて、彼女の元々の紹介者であり、リクルートについても間に入って調整をしてくれていた私の大学時代からの友人が、すっかりと責任を感じてしまったこともあり、代わりに退職して私達の事業に参画することになったのです。

とは言えども残念なことに、彼女も専門のプレスとしては同業他社から常時ヘッドハントを受けてきたような逸材でしたが、私達の事業に必要とされていたアパレルビジネスにおける広告宣伝以前の商品づくりといったような実務面に関しては、リクルートを取り止めた彼女の力量には遠く及ばなかったばかりか、その事実を最も切実に自覚していたところの彼女自身が、やがてストレスから心身に不調をきたしてしまうような状況に立ち至ってしまい、結局はまたドロップアウトしてしまう結果になってしまいました。

元々のリクルートを開業間際でキャンセルしてしまった女性の一件以来、出鼻を挫かれてしまった私達は、代わりに参画した私の学生時代からの友人の女性に当初から信頼を寄せていないわけではなかったのですが、現地法人の設立を先送りして開業準備室として活動を続けていました。

私ばかりでなくスタッフ全員に、完璧な基準とまで感じさせてきた開業準備だけに、その最終段階の根幹部分において思いもかけなかった躓(つまづ)きを見せたことで、全員に慎重意識が生じてしまっていたことは否めませんでした。

皮肉にも結果的には、その全員が抱いていた危惧感はそのまま現実のものとなってしまい、当初想定していた計画に照らして、その方向性にもズレが生じてきていましたし、予算計画も下方修正しつつあったところで、私の学生時代からの友人の彼女も完全に脱落してしまったのでした。

元々の事業予算計画自体が大きく膨らませたものでしたから大幅な下方修正をしたとしても、また若干の方向性の修正も、実際には何ら問題にもなりはしませんでした。したがって、元々のリクルートをキャンセルしてしまった女性との無意味な比較の基準になど陥ることなく、私の学生時代からの友人には彼女なりの方向性と方法論を確立していってもらうこと、そして何より最大の力となる継続こそを期待していたわけですし、そんな彼女を私ばかりでなく全員が全面的に受け入れていたのですが、結局ネガティブなスパイラルの奥底に陥ってしまっていた彼女に私達の気持ちが届くことはありませんでした。

元々誰にも得意不得意がありますし、ビジネスキャリアにはそれぞれの専門分野があるのですから、彼女に元々のリクルートをキャンセルしてしまった女性の穴を完全に埋め切れるはずもないのですし、そもそも簡単に代替が効くような人物を事業の中核に据えることもないのです。

埋め切れない箇所に対してどのような対処をしていくか、例えば分散したパートを担うことのできる新規スタッフをリクルートする、あるいは事業予算計画自体を修正するといったような対策を講じることに力を注いで欲しかったのですが、彼女の意識は独力で空いた穴を埋め切ることだけに集中してしまったようです。

彼女にも、そして元々のリクルートをキャンセルしてしまった女性に、ひいては世間一般のほとんどの人達に欠落してしまっていたもの、それはマネージメントメンタリティーつまり経営者としての発想やセンスでした。

マネージメントメンタリティーつまり経営者としての発想やセンスをあらかじめ備えている、それは第三者に左右されない絶対的価値基準を自らのあらゆる言動の規範とし、そのすべてに対する自己責任を徹底できる人達といえますが、残念なことにそうした人達にはなかなか出会えるものではありません。

何も特別な能力というわけではありません。最低限自らの在り様の範囲に限ったことでよいのですから、本来社会生活を営む私達全員にとっての常識であるべき必須条件と言っても過言ではないと思います。

人それぞれの才能や日々の努力によって培われる能力の差は、それぞれの人のマネージメントメンタリティーの及ぶ範囲の差としてのみ顕われるべきものであって、一人の成人として社会生活を営んでいくうえでは、あくまで全員が最低限度自らをマネージしていくことが不可欠であると、常日頃から私は考えています。

しかし、私達の社会構造の根幹は、封建時代や軍事体制下の時代からほとんど変わってはいませんし、それは、大多数の一個人の意識が何時(いつ)の時代においてもほとんど変わることのないことに起因していると言えます。

つまるところ、それは自立とは対極に位置する他者依存の発想なのです。そしてその第三者や組織やひいては体制に迎合し、自我を忘殺する代償としての安定や保証を追い求めようとする人としての脆弱さこそが、古今東西で永々と繰り返されてきたこれまでの人類と歴史であると言っても過言ではありません。依存従属しようとする対象がそれぞれの時代や地域によって異なっていたに過ぎず、封建社会においても軍事体制下においてもまた私達の自由民主主義体制下においても、一般大衆の本質的在り様はまったく変わるところはないのです。

自らの価値判断基準で言動し、その言動に対してのすべての責任を自ら負おうとすることなくしては、自らの権利を主張していくことはできませんし、それ以前にその主張していこうとする自我を確立していくことすらもままなりません。

人が二人寄れば一般に、そこにはリスクする者としない者、主張する者と許容する者、つまりは従える者と従う者という主従関係が生まれます。そしてその同様の主従関係に大勢の人々が自然に組み込まれ、さらに従える者をまた従えていく者が次々と生まれて組織や体制といった階層社会が構築されていくのです。そして最終的には、少数の従える者に大勢の従う者が依存従属する、換言すれば自我を放棄した自らの幸福すら描けない大勢の一般大衆の上に、少数のひいては王制下や軍事政権下においてはたった一人に権力が集中するといういびつ極まりない社会構造が出来上がっていくのです。

私達の社会構造つまり自由民主主義体制とて、自由競争という美名の生存競争により日々ポジションが入れ替わるだけのことであって、誰がどこのポジションにいようがポジショニングを上下させようが、その本質的な構造自体は何らの変化するものではありません。例えば貴方が社会的成功やそれに伴う富や名声を手中にしようが、あるいはそれが貴方ではなく私であったとしても、貴方や私と直接関わることのない第三者にとっては何らの影響もないということです。

競争社会においては、敗者救済の仕組みが存在しない限りは、表層的な平和はおろか真の幸福が成立するものではありません。第三者の否定や犠牲の上に成立する平和や幸福などそもそも存在しないのですし、巡り巡っていびつさの皺寄せはどんな競争の勝者にもやがて回ってくることになります。

このところマスコミを賑わせているあの鉄道と国土開発を中心としたコングロマリットを形成し栄華を極めた元総帥の衰退と組織の解体をはじめ、昨今の様々なかつての権力者達の没落の経緯は、いびつさを解消できない組織や体制の非永続性の証明に他なりません。

競争の敗者や社会の弱者救済の仕組みを有していないのは、私達日本の国家体制においても同様ですし、国際的な視野に立てば、途上国の貧困や様々な扮装の上に存続しうる私達の平和や幸福など存在しないことに、一人でも多くの人達に一刻も早く気付いてほしいと日々願うばかりです。(続く)



≪号外≫
サイト開設3周年記念コラム
あっと言う間にこのサイト&メールマガジンもはや3周年、されど未だ・・・/続き
("What's Cool Business!?" & "What's Cool Life!?"共通)


「サイト開設3周年記念コラム/あっと言う間にこのサイト&メールマガジンもはや3周年、されど未だ・・・」の続編掲載を予定いたしておりましたが、はなはだ勝手ながら次号以降に順延させていただきます。悪しからずご了承くださいませ。

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