DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life -

 
2003.01.27
四十にして立てるか・・・Vol.23

6年一括教育の高校に進むと、国語の教師は、文部省のカリキュラムなど完全に無視して教科書を一切使用せず、漢字と熟語しか教えていませんでした。毎授業毎に書き取りのテストをして、8割以下の成績の生徒を前に出して順番にビンタをして、後は毎回自ら作成したプリントにより熟語をひたすら訓読みさせていただけでした。

英語の教師も同様で、英字新聞をただ読ませるだけ、質問に答えられない生徒のお尻を竹刀で叩いていただけでした。

日本史の教師は、教科書にない基準に立ち入りすぎて、授業では結局江戸時代に入ったところで終わってしまいました。

今から考えると、当時よく問題にならなかったものだと思います。生徒達もそれで特に文句など言いませんでしたし、受験に熱心な生徒は、大抵は進学塾が学習の中心で、学校はおまけのようなものでしたし、クラスも前の席と中間、後ろの席では、まったく別の学校かのようにその性格も雰囲気も異なっていました。成績の良い学習に熱心な生徒は前列に、平均的な生徒は中間までに座り、教師達も前列と中間までしか授業の対象にしていませんでしたから、後列は授業の最初にまず並んでビンタや竹刀を受けた後は、もう好き勝手なことをしていましたし、それで教師も咎めたりもしませんでした。読書をする生徒、ヘッドホンで音楽に興じる生徒、寝袋で眠っている生徒もいれば、持ち寄った材料ですき焼きパーティーをしている生徒達もいるという具合いです。

暴力教師達(特に悪い意味ではなく)は、卒業式の日には池に放り込まれたり、ハリセン袋叩きにされたりと、後列の生徒達にお礼参りをされていましたし・・・。

生徒達にもユニークな人物が少なからずいました。私の学校はカトリックで、クラスに数人神学生といって将来神父になる前提で在籍している生徒がいたのですが、そのうちの私の仲がよかった友人は、聖書の暗記以外には何もしていませんでしたし、ナントカ通信などといって、ひたすら世相評論や自らの哲学をガリ版刷りの新聞で発行し続けていた生徒、既に作品を出版していた小説家や、漫画家として名が既に通っていた、あるいは絵描きとして各賞受賞の常連、男子ながら日本舞踊とお茶の師範であった姓同一性障害の生徒もいました。(続く)


2003.01.26

四十にして立てるか・・・Vol.22

私は学校自体は大好きでしたから、結局中学・高校の6年間、無遅刻無欠席で通い通しました。

好き嫌いはあっても、私の学校には、尊敬というよりも尊重しうる教師達が揃っていましたし、また少なからずやはり尊重しうる同級生達にも恵まれたからでした。

私は、お兄さんほど過激に授業をボイコットするわけでもなく、また彼女のように表面的には目立たぬ一生徒を演ずるわけでもなく、受けたい授業は受け、出ても他事に没頭していたり、図書館に篭ったりと、その日その日を気ままに過ごしていました。

私が留意していたことと言えば、単に自らの興味と好き嫌い、そして直感とイマジネーションに忠実に従うということでした。それまでは、そしてまたそうし始めた当初は、周囲からの反応や与える影響を考慮してしまい、なかなか勇気を持ちきれませんでしたが、それも単なる私自身の思い込みに過ぎなかったことを、やがて周囲が証明してくれました。結局自らの気持ちの持ち様だけの問題であって、私一人の在り様がどうであれ、周囲に迷惑さえかけなければもともと何らの問題もありはしなかったのです。

私は本当に勉強をしなくなりました。それまではオールマイティーにすべての学科でトップの成績を収めることを当然のこととしていましたから、それなりに勉強もしていましたが、それからは英語と国語を自己流で勉強する程度で、他の教科の勉強は放棄してしまいました。当初は友人達も驚きましたし、それなりに教師達や両親からの抵抗もありましたが、何事も継続していると受け入れられてしまうもので、学内で私はトップから一気に脱落し、後ろから数えた方が早いポジションに定着してしまいました。

相談だ、叱責だと、毎日のように職員室に呼ばれましたが、そのうちに教師達もあきらめて受け入れてしまったというよりも、積極的に私の新たな在り様を評価してくれていたように思います。私の成績は、教科によっては学校始まって以来の定期考査連続3回零点などという極端なものでしたが、その教科の教師は勝手に落第点すれすれクリアーの点数をつけて進級させてくれたりといった具合いでした。

自らが変わってみて初めて気付いたことでしたが、周囲の教師や友人達の一部には、やはり実に自然に自らに忠実な在り様に徹している人物が少なからず存在していたのです。(続く)


2003.01.22

たかがパソコン、されどパソコンVol.27
(business & life共通)

私はビジネス上の仲間や顧客とのやりとりの九割をメールなどパソコン上で処理していますので、在宅あるいは宿泊先で外出予定がなければそのまま引き続き、外出時には常時スタンバイモードにして携行しているB5ラップトップ、あるいはPDAにて、たとえ5分でも時間があればメールの返信、提案書や資料の作成、運営している各種サイトのコンテンツ原稿作成とサイトの更新といったルーティーンワークを処理してしまいます。

これらがおよそ延べ時間にして2〜3時間といったところでしょうか。したがっておよそ半日あれば、日々のルーティーンワークは終えてしまえるので、残りのおよそ半日はプライベートな時間ということになります。

まあ、実際にはなかなかこのように調子良くはいかない場合が多いですし、もちろんルーティーンワーク以外にも、ルーティーン化する以前の新規クライアントとの打ち合わせやコンサルティングといった直接出向く用件もありますから、いつも半日しか働かないわけではありませんが・・・。

また、機器のメンテナンスやバックアップ、経理処理、ログチェックなどアクセス統計分析、各種調べ物などもありますので、日々の状況に合わせて余裕のある日にまとめて処理をするようにしています。

それでもごく一般的なビジネスマンに比較すれば、毎日遊んでいると言われても否定できない程度の仕事量かと思いますが、その分年中無休24時間体制のネットビジネスですから、必然的に公私の境は曖昧となるというよりも、もはや私の場合は、仕事を遊び、遊びながら仕事をしているような状況です。(続く)


2003.01.21B

たかがパソコン、されどパソコンVol.26(business & life共通)

こんな一例をとりあげても、パソコンとインターネットの利便性の一端が理解していただけたのではないでしょうか。

いたしかたないこととはいえ、メーカーやベンダーあるいは通信業者の思惑により、またまだ様々な制約に満ちたコンピューティングの世界ですが、今後は消費者本位の論理によって徐々に環境は改善されていくでしょうし、さらに利便性と可能性が拡っていくことでしょう。


ある私の一日は、こんなふうに過ぎていきます。

起床後B5ラップトップを立ち上げて、メールチェックをします。仕事の種類によって使い分けているメールアカウントを一つのメーラーで一元管理をしていますので、様々な仕事ごとのメールを一度で一括して取り込むことができます。ここで緊急を要するメールがあれば、返信を済ませてしまいます。

外出の予定がある日には、身繕いと朝食を済ます間に、毎日必ずチェックしているサイトを事前にオフライン登録したブラウザで更新されたコンテンツをキャッシュに取り込んでしまいます。

在宅の日あるいは常時接続ネット環境のある宿泊先の場合には、全国紙全紙と一部の地方紙、各種情報提供サイトなど、毎日訪問するサイトを順次チェックしつつ、仕事仲間や顧客向けに毎日配信しているニュースクリップメールマガジンを作成してしまいます。

外出時には、移動中の電車や車の中、あるいは仕事や打ち合わせの合間にカフェなどでこの作業を済ませてしまいます。(続く)


2003.01.21

四十にして立てるか・・・Vol.21

この15歳の頃のしばらくの期間で、現在の私に至る人間性の基盤はほぼ出来上がってしまっていたような気がします。

事実、それから今日に至る私の人生は、当時の私なりの結論を、経験により確かめる日々の連続であったように、そして根源的かつ本質的な内面的深層部分については、私は当時からほとんど成長していないように感じるどころか、逆に自信が持ちきれずに様々な遠回りをしてきてしまったように思うのです。

これまで日々の試行錯誤を重ねてきた結果、私が今確信できているのは、当時の私自身は既にほぼ全面的に正しかったということなのです。

彼女の抱擁によって宇宙と一体化できたその日以来、彼女の日々の在り様を観察することからだけでも、私はまるで乾いたスポンジが水を吸収するかのような勢いで物事の本質を感じとっていくことができました。

すべての存在のあるがままの在り様を許容し、考える以前にまずは感じること、さらに考えること判断することの無意味さと愚かしさを認識したところから考え判断していくという、物事の本質を把握するためのコツのようなものを身に付けてからの私の生活は、まさに私にとっては劇的に変貌を遂げていきました。(続く)


2003.01.20

たかがパソコン、されどパソコンVol.25(business & life共通)

私の会社では、打ち合わせ、事業予算計画の策定、案件の進行状況、日々の業務報告、収支報告などといったすべての社内情報のやりとりを文書で行っていました。

まず本社からある提案なり報告なりが、関係者全員にFAXされます。その文書に対して担当者が返信をすると、その返信がまた関係者全員にFAXされるといった具合いです。

これを共同経営者だけのネットワーク、あるいは実務を担当する部署の責任者だけのネットワーク、実務スタッフも含めたネットワーク、全社的なネットワークなどと、いくつものネットワークが存在していたうえに、共同経営者達には存在するすべてのネットワーク上のやりとりがFAXされるわけですから、そのボリュームたるや膨大なものでした。

本社には、同報通信機能(一度メモリーに文書を記憶させ、あらかじめ登録された配信先に順次送信していく機能)を備えた配信専用のファックス機器を使用していましたが、まさに四六時中稼動したままの状態でしたから、通信費は毎月膨大な金額に昇っていましたし、ファックスロールなどは常に数十ケース単位で発注し、全国の関係者にケース単位で郵送するのです。

それらをすべて手作業でするわけですから、本社には通信専門要員が必要になります。大企業でもファックス専門要員がいるなどという話は聞いたことがありません。(続く)


2003.01.19

たかがパソコン、されどパソコンVol.24(business & life共通)

このように私自身も含めて多くの人々にとっては、まだまだ直観的といえる基準からは程遠いコンピューティングの世界の実情ですが、それを差し引いても利便性や可能性を考慮すれば、主体的積極的な活用のために多大な労力を割くだけの価値があると、私は確信しています。

私も振り返ってみると早やもう10年、パソコンと様々な格闘を続けながら、ようやく最近になってパソコンの利便性が享受できるようになったという実感が持てるようになりました。

私の現状のビジネススタイルは、パソコンとインターネットの存在なくしては、まったくもって成立しえないものですし、ライフスタイルも然りです。パソコンと出会った十年前には、夢や理想でしかなかった様々な事柄が具現化し、それまで膨大な労力をはらっていた様々な日々の作業が飛躍的に簡略化しました。

例えば、メーリングリストの存在です。昨今では多くのネットユーザーがごく当たり前に利用しているこの仕組みが生まれる以前には、私の会社ではFAXを使用していました。

共同経営者や出資者、そしてスタッフが全国に散在していた状況下、情報の共有化・画一化の必要性が非常に高かったためです。メーリングリストの機能をFAXで代用する手間が、読者の皆さんには想像ができるでしょうか。(続く)


2003.01.18

四十にして立てるか・・・Vol.20

ほんの束の間の出来事でしたが、彼女の胸に優しく抱かれ、まるで一体化して溶け合っているかのように彼女の確かな存在を心の奥深い場所でしっかりと感じ、そしてそれからも「ただ感じればいい」という彼女の囁きだけがいつまでも私の頭の中を巡り巡っていました。

そしてそれからの私は、不思議なほどあっけなくそれまでの迷いと絶望を逡巡する迷路から抜け出すことができましたし、また彼女に対してのそれまでの妄想と昂揚のサイクルからも、まるで憑き物が落ちたように解き放たれて、ごく自然に接することができるようになっていったのです。

それまでの私が陥ってしまっていたのは、結局のところはまた元の木阿弥、客体的価値基準の世界に過ぎなかったのです。既存の価値観や思考の様々な断面に、第三者の尺度を無理やり当て嵌めようとしたところで、私自身にとっての真実を手に入れることなどできようはずもなかったのです。

それからの私は、まるで水を得た魚が自由闊達に泳ぎ回るかのように日々を送り始めたのです。それまでのように思考に頼らず感情で、あるいは論理に依らず直感で判断する・・・、「ただ感じればいい」という彼女の一言だけが、そしてあの彼女のたおやかな胸の中で彼女を通して感じた広大な宇宙の広がりが、その後の日々の私の拠り所となっていました。(続く)


2003.01.17

四十にして立てるか・・・Vol.19

「・・・・・」

彼女は無言のまま優しい包み込むような瞳で私を見つめていました。胸が高鳴ってどうしていいかのかも判らず、私は彼女に尋ねました。

「行かないの?ロフトにみんな集まってるよ」

「・・・・・、いいのよ」

「どうして?みんな待ってるんじゃないの?」

「・・・・・、だって、つまんないんだもん」

彼女の口から出たつまらないという言葉があまりに私には意外だったのです。彼等と私には突拍子もなく思えるような会話をしている時が、彼女は一番楽しいのだとそれまで信じてきたからでした。

「・・・・・、みんなの話すことになんて振り回されてちゃだめよ。このところずっと考え込んじゃってるみたいだから、・・・私も最初はそうだったし・・・」

「・・・・・」

「みんなの話はね、みんな正しいし、みんな間違いなのよ。どっちにしても、結局結論はないの。誰も確かめようがないことばっかりでしょう」

「うん・・・、まあそれはそうだよね」

「どうでもいいのよ、結局・・・。考えることも話すことも何の意味もないの。ただそこにそれがあることを感じるだけでいいのよ」

つぶやくように彼女は話すとしなやかな右手を伸ばして私の後ろ髪をとらえて優しく私を引き寄せたのです。彼女の柔らかな暖かい胸に顔を埋めて、私は不思議なほどに何の感情にもとらわれずに、心から安らかな気持ちに包まれていました。

「・・・・・ほらっ・・・、こうして私を感じるでしょう・・・・・・・・・・はいっ、おしまいっ」

最後に私を優しく抱きしめて微笑みながら私の耳元で囁くと、彼女はまたそっと離れていってしまいました。(続く)


2003.01.16

四十にして立てるか・・・Vol.18

物事を突き詰めて考えていくために、当時の私がごく当然のこととしてとった方法論、それは物事を客観的にそして多角的に考察していくことでした。

この常識的ともいえる方法論によって、私はさらなる混乱のスパイラルに陥ってしまい、脱却することができなくなってしまったのです。

物事を観察し分析し判断をしていく過程においては、その視点の数だけの結論が存在するわけですし、結局のところすべての人達の個々の価値観や思想の在り様はそれぞれ異なるのですから、万人に共通する真理のようなある一つの結論などもともと存在しえない、たったこれだけの事実に気付くまでに私は、混濁と倒錯の心の迷路を永々と彷徨い続けてしまいました。

そんな単純な事実、つまりは考察自体の無意味さに気付かされたのも、何気ない彼女との会話の中の一言からでした。

それまでは興味が尽きなかったお兄さんと友人達の浮世離れした集会にも、精神的混乱をきたしていた私は参加する気になれなくて一人で考え込んでいたところ、傍らに彼女が静かに腰をおろしたのです。(続く)


2003.01.15

四十にして立てるか・・・Vol.17

まずは自己の価値観など、それまでの自らの在り様の全否定から始めていったのですが、それは本当に難しいことでした。

筆舌に尽くし難いような様々な苦しい試行錯誤を重ねながら、すべての既存の存在の在り様やそれまで慣れ親しんだ自らの思考の外側に身を置くようにしていくのです。

常識や良識、法律、経済、社会、国家、地球、宇宙にいたる、そして植物や動物、さらに人類全体と自分自身というありとあらゆる存在の在り様に関しての認識をオールクリアーしゼロとする作業です。

道を歩けば、青信号でどうして渡るのか、赤信号で車も第三者も周囲にない際に渡ることの是非を・・・、あるいは日々の食事や睡眠の必然性や必要性・・・、などといった日々の生活の様式から、学校、家庭、地域社会、メディアを通してみる日本の社会や国際社会の在り様について・・・、人種差別や経済格差、宗教的要因などによる世界の紛争や戦争の歴史と当時の現状について・・・、あるいは地球環境にいたるまで、当時の私に認識しえたおよそありとあらゆる事象について再考察をしていく日々が続いたのでした。(続く)


2003.01.09

四十にして立てるか・・・Vol.16

その頃までの私の頭の中には、独自性や創造性というものが欠落してしまっていたのです。

自らの存在価値は、第三者による客体的価値基準によって形成されていて、またその事実の認識すらも私にはできてはいませんでしたから、日々の生活も将来への希望も、すべてが既存の価値観や概念や出来上がった体制の枠組みにきっちりと収まってしまっていて、その外の世界観など想像すらもしたことがなかったのです。

お兄さんや彼女は、そうした私にとってはすべてといえる既存の世界観を否定しているわけではないのですが、外側に身を置いてまずは取捨選択、そしてカスタマイズし、さらに不足した物は新たに創り出すということを、ごく自然に日常的に実践していました。

まるで未知の世界に突然放り出されてしまった子供のように、それまでの自身の在り様を全否定されてしまった私は、まさに途方にくれて茫然自失の状態に陥ってしまったのでした。

それからは、まさにすべてをオールクリアーして無の状態からの再出発、一つ一つ最初から組み立て直すといったような、まるで別の人間として生まれ変わったような日々が続いていきました。(続く)


2003.01.02

四十にして立てるか・・・Vol.15

私のように数学に弱い者に限らず、大抵の人達は公式を覚えると思うのですが、彼女のような人達は、問題を解いていく過程で公式を導き出すのです。延々と続く式の途中にところどころ見覚えのある公式が現れ、最終的に解が導き出されるわけです。

何においてもこの調子で、お兄さんや彼女のような人達は、思考や言動の根源は常に無にあって、考えるうえでも学ぶうえでも既存の思想や学問の検証から始めていく、そしてそれらの客体的な基準に囚われないで、あくまで自らの絶対的な基準を創り上げていく姿勢を貫いているのです。

こういう人達との出会いは、それまでの私の人生のうえでの価値観を、あっさりと根底から覆してしまいました。

それまでの私の価値観は、まったくといってよいほど私自身にはなく、両親や友人や教師あるいは近所の人達といった狭い社会における第三者の価値基準によって形成されていました。つまり、第三者から受ける評価の度合いが、そのまま私の価値基準に比例していたわけです。

私の人生は、中学卒業を間近に控えたその時期に、まさに180度方向性を転換してしまったのでした。(続く)