DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life -

 
2002.12.31

番外(Business & Life共通)

2002年ももう今日で終わりですね。

今年もまた色々なことがありました。

このDAILY SHORT COLUMNSにお付き合いいただき、ありがとうございました。来年以降も営々と続けてまいりますので、引き続きよろしくお願いをいたします。

皆さん、素敵な新年をお迎えくださいませ。

POPO


2002.12.29

四十にして立てるか・・・Vol.14

お兄さんの頭脳は日々進化を続けて、やがて文部省の教育の枠組みなどをはるかに超えて、独自の絶対的な方向性や基準を確立していったようです。

毎日通った図書館には、彼が必要として父親が買い与えた様々な書籍を母校に寄贈した蔵書の一角もあったとのことでした。

お兄さんは、授業には出なくとも、中間や期末、校内外の実力考査は欠かさず受け、突出した成績を収めていたうえに、教師達すらも彼の実力にはまったく太刀打ちできませんでしたし、両親も含めて彼の日常の言動を揶揄したりする者は誰もいなかったようです。

そんなお兄さんの背中を見て育った彼女にも、そうした相対基準を持たない方向性や方法論は、そのまま引き継がれていたように思います。ただ、彼女の場合は、お兄さんのように目立つ個性的な言動は好みませんから、表面的にはごく一般的な学生生活を送っていたという違いはありましたが・・・。

今でも私が鮮明に記憶しているのは、ある日たまたま自宅の彼女のデスクに開かれたままの数学のノートを覗き込んだ時のことでした。ある数式を解く過程が、一般的には数行で済んでしまうような設問に対してほぼ二頁にわたって延々と書き綴られていたのです。(続く)


2002.12.18

四十にして立てるか・・・Vol.13

そもそも彼女と私を結び付けてくれたのも、お兄さんでした。彼女と親しくなる以前に、始終彼女宛にかけてくる私の電話に応答するのは、家政婦かお兄さんであったわけですし、私が自宅前で彼女の帰りを待っていた時にも、お兄さんはよく彼女よりも先に帰宅しましたから、度々顔を合わせるうちに根負けするように自宅に招き入れてくれたのでした。

私の彼女への想いをはじめ様々な会話をしてすっかりと打ち解けたところに帰宅した、普段はほとんど表情を変えることのない彼女の驚きの表情は、今でも私の脳裏に鮮明に焼きついています。

こんなに想ってくれているのだから付き合ってやれと、お兄さんが彼女を諭してくれたこともあって、その日以来私は彼女の自宅に公認で出入りできるようになったのでした。

お兄さんは中学時代に二年ほど不登校になった時期があったとのことで、当時は今のようにまだフリースクールのような施設も一般的ではありませんでしたし、それをきっかけにして何事にも独学という習慣がついてしまったようで、学校には卒業するために戻り、高校もほとんど授業を受けることもなく、図書館登校児で通してしまったのだそうです。

お兄さんにとっては、特に何ら将来の目的のようなものがあったわけではなく、学ぶこと自体が楽しくそして自己の存在を確認し主張する手段であったわけですから、当時の学校のカリキュラムを超越してしまい、様々な分野の文献にどっぷりと浸かりきった十代を過ごしたとのことでした。(続く)


2002.12.14

四十にして立てるか・・・Vol.12

お兄さんと友人達そして彼女が日常的に交わしていた会話のほとんどは、当時の私にはその場にいてもほとんど理解の範囲を超えていました。

宇宙の起源と本質を地球外知的生命体とその時間軸による空間移動という四次元的視点から考察する云々とか、人は何処からどのように何のために誕生して何処にいくのかとか、聖書の本質とその解釈の視点から考察したキリスト教とイスラム教の差異と優位性や、様々な新興宗教の発祥の背景と経緯について、また実存主義的考察の限界と矛盾について、あるいは人間の様々な欲望の本質とその増長と抑制の許容される限界から分析する現社会構造の形成の起源と過程、ひいては資本主義社会の限界と社会主義の失われた可能性を通して考察する理想の社会構造とは、・・・・・・などなど、いつもこんな調子で、延々と朝方まで議論が続くことも珍しくはありませんでした。

当時は目を丸くしてただ聞き入るばかりの私でしたが、そうした不思議な浮世離れをした人種達の会話や、何より彼らの価値観や生き方が、現在に至るその後の私の人格やライフスタイルの形成に及ぼした様々な影響は、はかりしれなく大きなものがあると感じます。なかでも彼等のリーダー的な存在であった彼女のお兄さんの在り様は、まさに私のルーツといっても過言ではないほど、その後の私の価値観やライフスタイルを一変させてしまったのです。(続く)


2002.12.12

たかがパソコン、されどパソコンVol.23(Business & Life共通)

・・・とPDAでは普段手書き入力アプリケーションを使用していると記述しました。このアプリケーションの影響による:現象だと思うのですが、ここ数日一段とテキストへの変換能力が落ちてきてしまったばかりでなく、スタイラス(付属のPDAを操作するためのペンのことです)の認識位置がずれてきてしまい、もはや我慢の許容限度を超えてしまいました。

デジタイザー(認識位置の補正機能)の調整やPDAの強制リセットなどをして状況は元通り程度には回復したのですが、やはりこの手書き入力アプリケーションをあきらめて削除しないかぎりは、購入時の認識水準には戻せないように思われます。

今私はこれを取引先との打ち合わせの間の待ち時間に、デスクで携帯用の折り畳みキーボードのローマ字入力により書いているのですが、普段のパソコンのかな入力に比べると倍以上の時間を要するだけでなく、相応のストレスを感じてしまいます。

私はトータルビジネスサポート業務の一環として、時々クライアントのコンピューティング環境改善のお手伝いをするのですが、いつも困ってしまうのは、キーボードが全く扱えない、あるいは文書をモニターで見られない(プリントアウトしないと画面を見ていても何も頭に入らない)というどのクライアントにも大抵存在する人達なのです。しかし考えてみれば、広く一般的に浸透しているローマ字入力が馴染めない私も同じ次元にいるのかもしれません。(続く)


2002.12.09

四十にして立てるか・・・Vol.11

そんな彼女にとってお兄さんは、もちろん兄であり、父親であり、母親でもあり、そして・・・。事実お兄さんは、彼女のことを本当に可愛がっていましたし、彼女もお兄さんにいつも付いて回っていて、お兄さんの友人達がイコール彼女の交友範囲でしたし、そういう意味でも只一人彼女と同年代の私は特異な存在でした。

彼女のお兄さんは、当時国立の大学院に籍を置いて、宗教の研究をしながら、小説や詩を書いたり、絵を描いたり、翻訳をしたりと、いろいろな仕事をしていました。世俗の塵埃から離れ飄々とした独特な雰囲気のある人物で、そんな彼の周りにはどこか浮世離れをした不思議な人達が集まっていました。

彼女の自宅は、迷子になってしまうほど部屋数のある大邸宅でしたし、両親もほとんどいないような状況でしたから、私同様にいつも誰かお兄さんの友人達が入れ替わり立ち代わり入り浸っているような状態で、5〜10歳ほども年上の彼等とばかり付き合っていた彼女の精神構造が、同年代の私達とは隔絶した基準に飛んでしまうのも、必然といえば必然だったのでしょう。お兄さんの友人達と接するうちに、私はだんだんと彼女への理解を深めていくことができたように思います。(続く)


2002.12.08

四十にして立てるか・・・Vol.10

受け入れてくれるようになったといえども、それはただ彼女が口を利いてくれるようになって、時折笑顔も見せてくれるようになったというくらいのもので、燃え上がった私の想いを受け止めてくれたわけではありません。

それでも私は、毎日のように彼女宅に入り浸って、夕食をご馳走になり、夜になってから自宅に戻るというスタイルを定着させてしまい、彼女の家族はもちろんのこと、彼女自身にも私の存在を日常化してしまうまでになっていったのです。

彼女の父親は、総合商社の重役だったのですが、ほとんど家庭を顧みないような仕事の虫で、毎日彼女宅にいた私も、ほんの数えるほどにしか顔を合わせたことはありませんでした。

母親は、ジュエリーショップチェーンを経営していたのですが、夜は大抵帰宅はしても、食事はほぼ毎日外で済ませてきていましたし、家事というものがまったくできない人で、住み込みの家政婦が家庭内のすべてをとりしきっていました。

そんな家庭環境も影響して、幼い頃からお兄さんと二人だけで食事をしてきた彼女にとって、私は邪魔な存在ではなかったと思います。

実際両親には内緒で家政婦に時々ゆっくり休んでもらっては、彼女とお兄さんと私で一緒に料理をしたりもしたものでした。(続く)


2002.12.04

四十にして立てるか・・・Vol.9

周囲の取り巻き達からの懐柔をと、何らか名目を作っては彼女に近付こうとしていたのですが、彼女を私を含めた当時の大勢の悪い虫どもから護ろうとするディフェンスは非常に強固で、様々な私の試みはことごとく阻まれてしまいました。

もっとも、後で判ったことでしたが、取り巻き達がどのように考えて動こうとも、彼女自身はその取り巻き達にすらも無関心だったわけですし、そういう意味では私の将を射んと欲すれば作戦自体が、そもそも的外れだったわけです。

そんな焦点のずれた無意味な作戦に数ヶ月を費やし、私が彼女への直球勝負に出たのは、もう生徒会長の任期も終わる頃になってからでした。

それからは毎日のように彼女を下校時に待ったり、手紙やら電話やらと、彼女が呆れ返ってしまうほどに、そしてもう取り巻き達にも私の彼女への熱烈な想いは認知され許容されるところとなっていきました。そして、私自身が自らに驚きつつも、決してあきらめることなく彼女につきまとい続けているうちに、彼女のお兄さんがだんだんと応援してくれるようになっていったのです。

彼女はお兄さんを心から愛していましたから、初めは彼から言われてしぶしぶという感がありましたが、それでも私を次第に受け入れてくれるようになっていきました。(続く)


2002.12.02


四十にして立てるか・・・Vol.8

生徒会の活動というような大義名分があれば、少なくとも相手には悟られない程度には、ごく普通に異性とも接していられたと思います。しかし、当時の私の頭の中は、妄想や羞恥心といったあらゆるとりとめもなく抑えきれない感情が常に渦巻いていました。もう一生異性と交際したり結婚したりなどとてもできないのではないかと、当時の私は真剣に深刻に悩んだものでした。

彼女はまるで女神のような、当時の私はまさに運命の女性だと思い込んでいましたから、表面的にはそつなく学業や生徒会の活動などをこなしながらも、頭の中では彼女のことばかりに終始していました。

当時の生徒会長としての立場を最大限に活用し、私の関心は彼女に如何に近付きそして獲得するか、そのことだけに全身全霊が注がれていたのです。

まずは、将を射んと欲すればで、周囲の取り巻き達の懐柔策に出たのですが、彼女は物静かな陰のリーダーといった存在で、取り巻き達も大げさに言えば崇拝しているかのように、そして私を含めて外部の様々な悪の虫どもから身を持って彼女を護るといったような鉄壁のディフェンスが敷かれていて、まさに難攻不落の状況だったのです。

後で判ったことですが、彼女の美貌は有名で、芸能界入りを様々なプロダクションからも周囲も嘱望していたようですし、また才色兼備、彼女は全国模擬試験では常時トップ5に入るほどに成績もずば抜けていたのです。それでも目だつことを嫌い、特定の友人すら持たないミステリアスな彼女は、誰もが認める特別な存在だったのです。(続く)