DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life -

 
2003.12.31

■ホスピス:
診療所付きアパート建設へ 東京で医師ら計画(business & life共通)

 病室でなく自分の住まいで、自分らしく命をまっとうしたい。そんな願いを実現しようと、ホスピス医らが、往診主体の診療所や介護ステーションを備えたアパートの建設を、東京都小平市の住宅地で進めている。病気や年齢にかかわらず援助が必要な単身者が入居し、近所の住民が集える広場も備える。さまざまな人が助け合いながら自立して生きるイメージは、さしずめ「平成のホスピス長屋」。04年に運営主体の非営利組織(NPO)を設立し、05年秋の始動を目指す。

 計画は、桜町病院聖ヨハネホスピス(東京都小金井市桜町)の山崎章郎(ふみお)医師(56)と、コーディネーターの長谷方人(つねと)さん(49)が10年以上温めてきた。

 山崎さんは90年に「病院で死ぬということ」(主婦の友社)を出版、尊厳ある死に方とホスピスの意義を訴えた。

 一方、長谷さんは父親を肝臓がんでみとった経験をもつ。「悔いのないように生きなさい」という最期の言葉に動かされ、営業マンからホスピス職員に転身した。

 「年間350人が外来相談を予約するが、約3分の1は入所を待てずに亡くなる。ホスピスケアを自宅で受けられる仕組みを作りたかった」と長谷さん。03年春、約2600平方メートルの土地を購入し、基本設計を終えた。長谷さんは父親の遺産を提供した。

 建物はバリアフリー設計の3階建て。1階に診療所やデイケア室、アトリエなど。2、3階は居住空間で、ワンルームを中心に21戸。共同浴場や食堂もある。ゲートボールやフットサルができる広場も設ける。

 完成後は、原則として公的支援を受けず運営する。「ホスピスは、がんとエイズに限られる。がん以外でも、若い人でも、必要な人にケアを届けたい」と山崎さんは話す。

 家賃は周辺の賃貸住宅並みにし、年金の範囲内で暮らせるよう配慮する。山崎さんらホスピスケアに通じた専門家が、「長屋」の住人だけでなく、周辺の往診や訪問看護・介護も請け負う。2人は「江戸時代の長屋のように、いろんな人生を生きてきた人たちがいたわりあいながら生きられる場所にしたい」と話す。【元村有希子】

◇ことば ホスピス

 語源は「もてなす」というラテン語。不自然な延命をせず、生命の質を重視する考え方を指す。近年、がん患者らに対し、身体的、精神的な痛みのケアをする施設の呼称として定着し、旧厚生省は90年、「緩和ケア病棟」の名前で制度化した。

〔毎日新聞〕


2003.12.23B

■【食の政治学】生ガキ30個 ミッテラン氏の恐るべき食欲


 約三十個の生ガキにフォアグラ、丸焼きシャポン(肥育鳥)二、三片、ズアホオジロ二羽−。一九九六年一月八日に前立腺がんで死去したミッテラン前仏大統領が、その一週間前の大みそかに食べたごちそうである。この大統領にかわいがられ、最後の晩餐(ばんさん)会に招待されたジャーナリストのジョルジュマルク・ブナモ氏は著書『最後のミッテラン』の中で、末期がんの苦痛に耐えながら「同じ熱心さ」で数個ずつ載せられた生ガキの皿を何枚も重ねていく前大統領の壮絶な姿を描いている。

 ズアホオジロは仏南西地方に多いホオジロの一種で珍味で知られる。捕獲が制限されており、特別ルートでないと入手できない。前大統領は「ズアホオジロのない大みそかなんて」と言って毎年、楽しみにしており、この年もクリスマスを過ごしたエジプトから「塩気の少ない生ガキ」とともに家族に注文したそうだ。

 頭も羽も足も付いた状態でロチ、つまり焼き鳥にし、骨をかみ砕き、血汁をすすって丸かじりにするという食べ方なので、敬遠する人も多い。前大統領が大満足だった様子は「長い間、完全な沈黙の中で彼がこの動物にかかりきりなのを私たちは聞いていた。作業が終わると彼はゆっくりと後ろに頭をそらして伸びをした。エクスタシー」と描写されている。

 食卓を囲んだのはダニエル夫人と、二人の息子のジルベール氏とジャンクリストフ氏にその家族。さらに側近のジャック・ラング元文化相ら約二十人。ちなみに前大統領は「クリスマスは隠し子のマザリーヌさんとその母親」「大みそかは家族」と区分して過ごしたそうだ。

 最後の大みそか、ミッテラン前大統領の話題はもっぱら、後任のシラク大統領が同夜にテレビ、ラジオで行った新年のあいさつだった。「悪くはなかった。(自分と同様に)欧州旗と仏国旗の前で(あいさつを)行ったのもよかった」と評価した。

 三度の挑戦で八一年に大統領の座を獲得、前立腺がんや隠し子騒動を乗りきり、第五共和制で十四年という最長在任記録を誇るミッテラン氏。その権力に対するすさまじい執念は、このおそるべき食欲にも通じそうだ。(パリ 山口昌子)

〔産経新聞〕


2003.12.23

@cafe,Tokyo 2003.11.13 18:30〜21:20 Vol.7

既に空腹に堪えかねていたのでしょうか、臭気の元の少女の落ち着きのない様子に促されるように二人が立ち上がるとすぐ入れ代わりに腰を下ろしたのは、外国人と日本人の若い男性の二人組でした。

日本人の男性はまだ大学生らしく、午前中の講義が終ってから図書館に寄ってこんな本を借りてきただの、昼食は親子丼だっただの、それからスポーツジムに行って先程まで泳いでいただのと細々と話していて、それをまたいちいち相槌を打ちながら若干年長に見受けられるアメリカ人男性が楽しそうに聞いているのです。

まるで女性同士の他愛のない会話のようで、少々不自然な印象からゲイのカップルなのかと思いきや、それは英語の個人レッスンだったのです。流暢とは言えないまでも、必要充分な会話力でしたから、レッスンなど彼には不要なのではないかと思い始めた頃、また立て続けに外国人男性と日本人女性のカップルが二組入ってきて、驚いたことに彼らのいずれも英会話の個人レッスンを始めたので、今度はカフェが英会話教室に早変わりをしてしまったのでした。

先頃まで語学教室のコンサルティングをしていた関係から、スクールに通わないでそうした個人レッスンが巷では流行しているという知識はあったのですが、実際にそれも三組も同時に目のあたりにしたのは初めてでしたし、興味深く観察するうちにへたなスクールに通うよりはずっとプラクティカルかつリーズナブルな英語習得方法に思えました。(続く)


2003.12.20

@cafe,Tokyo 2003.11.13 18:30〜21:20 Vol.6

彼女達の会話の端々から窺い知る、その夜の宿探しや援助交際を求めるなどといった少女達のメッセージが出会い系サイトの掲示板などに無数に書き込まれ、またそれらに応える相当数の心ない大人達が存在し、そんな少女達の不健全な閉塞的生活を幇助(ほうじょ)しているという事実は、ただただ嘆かわしい限りです。

たまたままた数日前の新聞にも、出会い系サイトを通して呼び出したそうした心ない大人達のまた気弱そうな輩達から、仲間の少年達と結託して金品を脅し取っていた少女達が逮捕されたという記事が掲載されていました。

もともと金銭目的での買春行為に安易に走ってしまうような少女達に物事の道理に耳を貸す下地は希薄でしょうし、内心では軽蔑あるいは嫌悪の対象でしかないのであろうそうした心ない大人達を少々脅したところで、おそらくそれほどの罪の意識すらも感じてはいないのではないでしょうか。少なくとも大人の側も後ろめたさからなかなか被害を届けられないでしょうから、こうした事件はほんの氷山の一角、実際には日々いたるところで繰り返されているのでしょう。

ネットアイドルの女性も臭気の元の少女に対して、貴女達のやっていることの合法的延長といったような表現でそれから教えようとするネットビジネスのノウハウを説明していました。感心するやら呆れるやら情けないやらです。(続く)


2003.12.10

@cafe,Tokyo 2003.11.13 18:30〜21:20 Vol.5

それから臭気の元の少女は、ネットアイドルの女性の暮らす部屋にその夜は泊めてもらい、お風呂と着のみ着のままの衣服の洗濯をさせてもらえることになったらしく、私も他人事とはいえどもほっとすることができました。外見には似つかわしくなく面倒見の良い女性なんだと、ネットアイドルの女性にとても感心してしまいました。

余談ですが、私がまだ二十歳前の学生の頃、一人暮らしのアパートの窓から出入りしていた猫がそのまま居着いてしまうのと同様に(それも日毎に増えていくのです)、何度か道に落ちていた少女を拾って帰ってしばらくペットのように面倒を見たり、飲み屋で知り合ったような宿無し(とりあえず屋根のある何処かに泊まるので、昨今の家出少年少女やホームレスとは若干ニュアンスは違いますが・・・)が数日滞在したりすることもありました。そんな当時の日々を想い出しつつも、また現在の私自身がまさにそんな当時の彼等と同様な放浪者としての日々を過ごしているのですから、傍から見れば大差ない彼女達と私という同類がたまたま隣り合わせているのだという事実に改めて気付かされたのでした。(続く)


2003.12.09


■「自衛隊行くなら非武装で」 イラク民主化指導者が会見(business & life共通)

 来日中のイラクの民主化指導者アブドルアミール・アル・リカービ氏(56)は8日、東京・日比谷のプレスセンタービルで記者会見し、自衛隊派遣について「現状のままでは占領軍と一体化する」として改めて「反対」を表明。小泉首相が約束したメソポタミア湿原の復興事業への支援を国際社会とイラク国民に向けて明らかにすれば「派遣される自衛隊員や支援にかかわる日本人の安全につながるだろう」と述べた。

 同氏はその場合でも「自衛隊は非武装で派遣されるべきだ」とした。自衛隊員が正当防衛でイラク人を殺傷する可能性についての質問に、「武装してよその国に来て正当防衛などありえない」と強調した。

〔朝日新聞〕


2003.12.06


■イラク、ベトナムと似ている 元従軍写真家アダムズ氏(business & life共通)


 ベトナム戦争を象徴する写真の一枚、「解放戦線将校をピストルで撃つ南ベトナム国家警察長官」を覚えているだろうか。68年にあの写真を撮った米国のエディ・アダムズ氏は、報道カメラマンとして計13の戦争に従軍した。数々の悲惨な光景を目の当たりにした体験から今、声を大にして言う。「イラク戦争は間違いだ」。イラクのベトナム化への懸念が強まるなか、アダムズ氏は体験的反戦論を、こう語った。(ニューヨーク=五十嵐浩司)

●「戦争には絶対反対、耐えられぬ人の死」

 戦争には徹頭徹尾反対する。戦争はよくない。戦争をしたがるのはアメリカの政府であって、国民ではない。どの国の国民だろうと、生身の人間。その人間がつまらん理由で殺されるのには耐えられない。

 私は老いぼれだが、まだ現役だ。でも、イラクには行かない。このよくない戦争に巻き込まれたくないからだ。だれも他国の人々に、その国をどうするか指図する権利はない。米国は独裁者になってはいけない。

 65年にカメラマンとして初めてベトナムに派遣されたとき、私は心底愛国的で戦争支持だった。米国は正しいと信じていた。「悪いやつは皆やっちまえ」と血がたぎって。

 2週間の派遣のはずがちょうど米海兵隊のダナン上陸があり、帰国したのはほぼ1年後。米国に1カ月ほどいたが、家族を除けば、だれもベトナムで死んでいく兵士たちのことを気にかけない。

 ベトナムでけがをした松葉づえの元兵士を、タクシーがひきそうになる。「何だこれは」。アメリカってやつが分からなくなった。だから、ベトナムに戻ったんだ。

 戦争への見方が変わり始めた。アメリカ人もベトナム人も命の重さは同じと気づいた。

 最後にベトナム戦争を撮ったのは68年。戦争は無意味でばかげたことだと分かっていた。とはいえ、頭を撃ち抜く瞬間を撮ったのは、ただ私がそこにいたから。写真はベトナム戦争批判を強めたが、その意味を理解したのはピュリツァー賞を取ってからのことだ。

 イラクとベトナム。よく似ている。ちょうどベトナム戦争下のカンボジアで教一(ピュリツァー賞写真家・沢田教一)が狙撃されたように、イラクでも各地で誰何(すいか)なしの攻撃が続いている。たぶん、米軍が撤退するまで続くだろう。

 しかも、サイゴン(現ホーチミン市)では人々は米兵に温かかった。ベトコンが交じっていると知っていたが、それでも心地よかった。それがイラクではどうだ。

 ベトナムで米国は多くの教訓を得た。それが、イラクにまったく生かされていない。

 例えば65年に私が会った米海兵隊の将軍は、「ベトナムでは勝てない」と断言していた。ゲリラ戦に対応するにはあまりに兵士が少なく、もし十分に兵がいても勝利まで15〜20年はかかるというのだ。イラクでも現地をよく知れば、こうした判断になる。

 戦争取材は湾岸戦争(91年)まで続けた。世界中の難民キャンプを訪ねた。いま、世界の有名人を専門に撮るのは、泣きながら仕事をするのが嫌だから。レンズを通して彼らの痛みを感じて泣いた。「もう、たくさんだ。こんなのは撮れない」と言いながら、仕事をするのはもう嫌なんだ。

     ◇            ◇

◆エディ・アダムズ氏

 米ペンシルベニア州生まれ、70歳。AP通信、タイム誌を経てフリーに。これまで約500の賞を受けた。撮影した国家元首は70人近い。ニューヨーク市内にスタジオを構え、郊外に後進育成のための研修所も設ける。今年、若手カメラマンのため、友人だった沢田教一にちなんだ賞などを創設した。

     ◇            ◇

《キーワード》ベトナム戦争 60年の南ベトナム解放民族戦線結成に対し、米軍は62年、サイゴンに援助軍司令部を置いて公然と介入し、第2次インドシナ戦争が始まった。64年8月のトンキン湾事件を機に翌65年2月、北爆を開始。米軍は当初、戦況に自信を示したが、68年1月の解放戦線と北ベトナム軍による8万人を動員した「テト攻勢」で戦況が逆転。ゲリラ攻撃に苦しめられ、73年1月のパリ和平協定で撤退した。75年4月30日のサイゴン陥落で戦争は終結。死者数は米軍5万8千人、ベトナム側は200万〜300万人といわれている。

〔朝日新聞〕


2003.12.04

@cafe,Tokyo 2003.11.13 18:30〜21:20 Vol.4

しばらくの間音楽とモニターとの対話に没頭していると、鼻の奥に刺さり喉にからみつくような臭気に気付いて顔をあげると、OL三人組に追い払われてしまったかのようにすっかりと客が入れ替わってしまっていて、何時の間にか店は喧騒に包まれていました。

相変わらず三人組はけたたましくはしゃいでおり、隣席の制服姿ながらもそのまま夜の店に出るのかと思えるほどにヘビーなメイクがアンバランスな女子校生にすらも顔をしかめられてしまう有り様です。

驚いたことに漂う臭気の元は、私の前の席の二人連れの一人私に背を向けている側の女性からでした。洩れ聞こえてきた二人の会話によれば、彼女達は家出中の身の上らしく、向こう側の私の方を向いている二十歳前後に見受けられる女性から、手前の臭気の元である女性が、インターネットを活用して日銭を稼ぐノウハウを学んでいる様子でした。

伝授する側の女性は、ネットアイドルとして写真撮影のモデルや会員制のオフ会を企画するなどして相応な収入があるらしく、家出中とは言えども身なりもしっかりとしていましたし、住む部屋のスポンサーもあるようなのです。ルックスはややロリータチックでコケティッシュなイメージ、ネットアイドルと言われればなるほどと納得できるような美人でした。

一方の臭気の元の女性はまだ高校生、へたをすればまだ中学生かもしれない年頃のあどけない少女でした。彼女は、公園やビルの階段などを普段ねぐらにしたり、声をかけてくる男達にたかったり、万引きや食い逃げを常習としているような荒んだ生活に明け暮れている様子で、その日も初対面のネットアイドルという女性に万引きをしようとしたところをたしなめられ、そのままその店に連れてこられたようでした。

臭気の元の少女の日々の破天荒な生活ぶりも、またネットアイドルの女性のネットビジネスの実情も、まったく異なる視点からながらも本当にそのように暮らしていけるものなのだと、これにも妙に私は感心させられてしまったのでした。(続く)


2003.12.02


■【殉職 日本人外交官】2人が担った「多くのこと」
テロとの戦い「何をためらう」(business & life共通)

 事件発生から二日以上経過した二日未明(日本時間)にいたってもなお、情報は錯綜(さくそう)している。イラク中部で日本人外交官ら三人が銃撃されて殺害された事件で、外務省には、現地警察からの「車で走行中に銃撃を受け、道路脇にそれて止まった」との複数の目撃者情報と、米軍からの「道路脇の売店で水などを買おうとしたところを襲われた」という二つの情報が伝えられた。どちらが正しいのか、状況はまだ正確には分からない。だが、「日本の宝」(岡本行夫・首相補佐官)は失われた。その事実を私たちは受け止めなければならない。

 イラクでは、断食月のラマダンが始まったばかりの十月二十七日から、NHKの朝の連続テレビ小説「おしん」が放映されている。平成四年に放映したエジプト国営放送に協力を依頼し、テープをダビング。ヨルダン経由で輸送したものだ。

 この放映の仕掛け人が在英国大使館の奥克彦参事官(四五)だった。奥さんは今年六月、NHK出身の外務報道官の高島肇久さんにメールで持ち掛けた。「…イラクのように歴史があって国民の知的レベルの高い国は、やはり文化交流だと思います。(中略)今は米軍もそんな余裕は全くありません」

 高島さんは「本能的に、おしんならイラクの人たちにも訴えかけるものがあると分かったのでは。日本を強く意識しイラクの人たちに何が一番役に立つか、日本式で何かできるはずと考えていたからでしょう」と話す。

               ■■

 奥さんが、クウェートからバグダッド入りしたのは、今年四月二十三日。三日後、在イラク大使館の井ノ上正盛書記官(三〇)が合流した。

 〈参事官は課長級職員。書記官は一等、二等、三等に分かれ、主に当地の情勢分析、通訳業務が主な仕事〉

 奥さんと井ノ上さんが派遣されていたのは、米国防総省の組織で、イラク復興支援の行政・民生部門を担う復興人道支援機構(ORHA)。

 ORHAは六月初旬に、イラク人による政権が樹立されるまでの暫定統治を目的とする連合軍暫定当局(CPA)に統合された。

 外務省のホームページ(HP)に奥さんが連載していた「イラク便り」によると、二人は学校を視察して日本ができる効果的な支援の内容を検討したり、小麦など「基礎食料品」の値段が高騰しないよう配給システムを維持するなど多忙な日々を送っていた。

 事件当日、出席するはずだったイラク中部ティクリートでの会議はCPAの民生部門主催で、そこで日本政府として地域のニーズを把握することが目的だった。

 奥さんと井ノ上さんはORHAの本部のあったチグリス川流域にあるサダム・フセイン宮殿内に米軍関係者らと住みこんでいた。奥さんによると、建物だけでも「赤坂の迎賓館の三倍」近いが、水も電気もなく、腐臭が強く砂埃(すなぼこり)がひどった。ホテルで暮らすことも可能だったが奥さんの同期入省の泉裕泰・在外公館課長(四六)は「あえてアメリカ側の懐に飛び込むことが大事だと分かっていたからそういう生活を選択したのだと思う」と説明する。二人がバグダッド市内のラシード・ホテルに生活の拠点を移したのは、七月末になってからだ。

 経済産業省技術協力課の根井寿規課長(四五)は、資源エネルギー庁の石油精製備 蓄課長だった今年五月にイラクを訪れ、十日間、二人とベッドを並べて過ごした。

 ある日、奥さんは、クウェートから持ち込んだ炊飯器を見せ、「これからご飯を炊くから一緒に食べよう。日本人は米の飯を食ったら元気が出る」と、どこからか入手したわずかな米を使い、ふりかけつきの「歓迎会」を開いてくれたという。

               ■■

 ≪自衛隊の姿なく…さびしさ吐露≫

 奥さんは、「イラク便り」のなかで、フセイン大統領の圧政から解放された住民の安堵(あんど)の声や日本の援助に対する期待の高さをしきりに語った。「イラク国内には何カ国の部隊が駐留しているでしょうか」などと、そこに自衛隊の姿がないことに“さびしさ”を吐露することも。

 八月中旬に在バグダッド国連事務所で起きた爆弾テロ現場では、犠牲になった旧知の国連職員の名刺を発見して、「『日本の友人たちよ』…『何をためらっているんだ。やることがあるじゃないか』と語りかけてくる」と自らを奮い立たせた。そしてテロが続発するにつれて嘆き、テロに対する怒りの声が目立ってくる。

 二人の警備が万全でなかったことが論議を呼んでいる。奥さんの同期入省の山田彰・経済協力局無償資金協力課長(四五)は「奥さんは防弾チョッキを着ることは、イラク人にとってお前らを信用していないというふうにみえるので着ない、と話していた」という。

 一日、外務省内で行われた追悼式で、竹内行夫・外務事務次官は「これほど多くのことを、こんなに少数の人が担ってきた」と述べた。

               ■■

 ≪「家族会えぬ辛さ、米兵も」≫

 「(米陸軍の)82空挺(くうてい)団の面々も来年3月までには故郷に帰る目処(めど)が付いたようで、『あと少しの辛抱で家族に会える』と皆、遠く離れた家族を思って感謝祭の夜を過ごしていました」

 イラクで殺害された在英国大使館参事官の奥克彦さん(四五)が外務省のホームページ(HP)で連載を続けていた「イラク便り」。一日、七十一回目となる「最終回」の遺稿が掲載された。

 題は「感謝祭とラマダン明けの休み」。十一月二十七日付で送られてきた原稿を外務省国内広報課が受け取ったのは週末の二十八日朝。従来ならチェックなどで掲載までに数日かかることもあるが、今回の悲劇を受けて、できるだけ早く掲載するために一日朝から作業に取り掛かった。

 HPで奥さんは、米国の感謝祭の歴史を紹介し、イラクでその夜を楽しむ米陸軍第82空挺団と、さらに断食月ラマダン明けの大祭の日のバグダッドの様子を記している。米軍の兵士が家族に寄せる思いに、自らの気持ちを重ね合わせているようにも読める。

 外務省によると、奥さんは事件が発生した二十九日の翌日三十日夜に、アンマン経由で、本来の任地であり、家族のいる英国にいったん戻るはずだった。

 「最初の読者として生の現地のリポートを楽しみにしていました。それがこういった事情になってしまって…」と、同省で「イラク便り」を担当してきた進藤康治さん(三五)は、肩を落とした。

 同期入省の同僚に「イラク復興支援では日本が試されている。長期的な国益のためにはやることはたくさんある」と熱っぽく語っていた奥さん。

 「おれは危険がないなんて一言も言っていない。危険を回避するために可能な限りのことをする。ただ、リスクがあってもやらなければならないこともある」。こう話していた奥さんの姿が、同僚のまぶたに焼き付いている。

               ■■

 「アラブは本当に偉大だよ」。もう一人の「殉職外交官」となった在イラク大使館書記官の井ノ上正盛さん(三〇)の口癖だ。得意のアラビア語を駆使してイラク復興支援に献身的な努力をしていた井ノ上さんは、自らの青春をかけたアラブの大地で短すぎる生涯を終えた。

 外務省に入省後、シリアでのアラビア語研修のため三年間、井ノ上さんと一緒に過ごした石川博崇(ひろたか)さん(三〇)=在オマーン大使館勤務=は一時帰国中に大阪で同期生の悲報を聞いた。

 アラビア語の研修は、大学などの教育機関に入学するわけではない。シリアの首都、ダマスカスで、元医師の「家庭教師」の家に毎日のように通って、発音、文法、会話、読解のレッスンを受けた。さらに“暮らし”を通じて、アラブの歴史や文化、人々の考え方や気質を理解していった。

 「井ノ上はアラブ人の心のひだまで分かった。相手の懐に入って、本音を聞きだせたのは流暢(りゅうちょう)なアラビア語が話せたからだ。アラビア語の標準語だけでなく、方言も積極的に学んでいた。アラブの民衆の中に入っていくことが大好きな男だった」

 日本はその彼を失った。「悔しい。胸が詰まる。でも、彼が歩んできた道を自分もまた歩んでいくことで、友情と彼の遺志を大切にしたい」と石川さん。「アラブの大地に骨を埋めたい」と話していた井ノ上さんの夢は受け継がれていく。

               ■■

 国際貢献にかかわる人たちの死。今回の事件は、過去の「殉職者」の遺族の心も揺さぶった。

 平成十年七月、国連タジキスタン監視団(UNMOT)の政務官として滞在中にイスラム反政府勢力に射殺された国際政治学者、秋野豊さん=当時(四八)=の妻、洋子さんは「五年前と同じ状況。見たくもないのに、ずっとニュースを見てしまう。あの時を思いだし、とても冷静に話すことはできません」と言葉を詰まらせる。

 「国民一人ひとりが、日ごろから問題意識を持って考えなければいけなかった。引くに引けない状況になってから考えても遅く、ただただ流されてしまう。一人ひとりが、自分の生きている地域から少しずつ範囲を広げ、世界とどうかかわっていくかを考えてくれることを望みます」と涙声で話した。

〔産経新聞〕


■日本外交官殺害:
二人の死に「立ちすくむ」時(business & life共通)

 いつの間に私たちは、ここまで来てしまったのだろう。二人の日本人外交官がイラクで無残に殺された現実を前に「ひるむな」「テロに屈するな」と勇ましいことばがりあちこちで語られる。自衛隊のイラク派遣計画は、その是非をめぐる十分な議論が行われたとも思えないのに、二人の事件後も「いつ決めるか」「いつ出すか」と時期だけが関心事になっている。「ひるまず進め」というムード作りだけに二人の死が使われるとすれば、異論がある。

 亡くなった奥克彦参事官は今年8月、テロで破壊された国連バグダッド事務所を訪れ「イラク便り」に「残った我々が一層力を合わせてイラクの復興に尽力することが、せめてもの餞(はなむけ)でしょう」と記した。一緒にいた岡本行夫首相補佐官に「これを見て引けますか!」と声をあげた、という。

 胸を打つこうしたことばの断片が独り歩きし、「遺志を継ぐ」=「自衛隊派遣」と単純に解釈されてしまうのは怖い。

 外交専門誌「外交フォーラム」11月号への寄稿を読むと、奥さんが国連の役割に大きな期待を抱いていたことがわかる。

 「(イラクの)重荷を米国と一部の連合参加国だけでは、いずれ背負い切れなくなるでしょう。その時、国連という機関の役割が必ずや大きくなってきます」。米国と国連が相互補完関係に立って協力する必要を説いていた。

 奥さんが残したことばを「錦の御旗(みはた)」に掲げ、遺志の解釈争いをするわけではない。しかし「『国際社会とテロとの戦い』という構図をイラク復興の中で確立する」という彼の発想は興味深い。

 反米武装勢力の狙いは「反米イスラム対親米有志連合」という対立図式でイラクを戦場化することだろう。世界にイラクの現状をいかに認識させるかのイメージ戦争において、ブッシュ米政権は反米勢力に先手をとられている。外国人や米兵が次々に殺される現状を「民主化のためにやむをえない犠牲」とはだれも受け入れない。

 この状況では、国連の復権が対立の構図を変える契機になるのではないか。米英占領当局(CPA)を解散し、国連の暫定統治に切り替え、イラク人政府を育てる。「国際社会とテロとの戦い」という新しい構図はそうでもしないと生まれない。

 日本政府は近く自衛隊派遣を閣議で決定するという。いま私たちが考えるべきなのは「自衛隊を年内に出すか」という点ではない。「米国の一極支配に世界の平和と日本の安全を委ねる道」を日本が国家路線として選ぶか否かの選択だろう。

 世界にはその道を選んだ国もある。だが、国連の役割を重視し、有志連合に入ろうとしない国もある。自衛隊派遣決定は有志連合の中核に加わり、大きく一線を越えて踏み出す意味がある。その重さをもう一度とらえたい。毎日新聞の世論調査では「可能な限り早く派遣すべきだ」と答えた人は9%だけだった。

 気がつけば、違う時代にするすると引きずり込まれていたという事態を避けるために、二人の死に立ちすくみ、考え込む「勇気」を持つ時だ。【外信部長・中井良則】

〔毎日新聞〕