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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Business!?-

■□■第11号■□■


≪CONSIDERATION≫
21世紀を生き抜く負けないビジネス・その2
〜何も始めないほうがいい。でも一度始めてしまったら、最後までやり通すしかない。
「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」
/その2

この秘書室長の会社の実情も、特筆に価する凡人の想像の外にあるものです。

グループの関連企業を併せると優に100社を上回るコングロマリットの一角に位置する広く世間に名の通った会社なのですが、ここの社長はコングロマリットの総帥の懐刀として長く仕える人物です。

この会社は、事実上はこのコングロマリットを中枢で支えるブレイン達はもちろんのこと、提携先や得意先などの子息令嬢達を就職させるために設立されたといっても過言ではありません。

もちろん社員すべてという訳ではなく、末端にはそんな事実は知らないまま、通常の就職活動を通して新卒で入社してくる人達もいますが、彼らは決して社内でのポジションをあげていく機会には恵まれませんし、そんな実情を知ることになった優秀な人材のほとんどは、数年で見切りをつけて離職し独立したり転職をしていくことになります。

受け付けの女性や入社したての使い走りのような男性が、実はそのコングロマリットのグループ会社重役の、あるいは例えばメインバンク頭取や主要取引先トップの子女子息であって、実際には世襲による将来が嘱望されていたりするのです。

本来だからどうだという訳でもありませんし、馬鹿馬鹿しく感じはしながらも、それでもへたな扱いはしづらいやらで、私自身もその後その会社との取引に見切りをつけてしまうまでの間は、日々誰に対しても実に神経を使ったものでした。

そもそも前述のあのレストランに同行したデザイナー女史にいたっては、日本を代表する財閥の一つの創始者を祖父に持ち、政財界あるいは社交界に広く名が通った強大な人脈の持ち主であって、その会社からは契約の形態の上ではデザインを請け負う一協力業者としての立場でありながら、実質上はあたかもその会社を支配しているかのような立ち振る舞いでしたし、おまけにその会社の社長は女史の実弟だったりもする、万事がこのような調子で至極当然のことのように廻っているのです。

こうした富裕な人達の多くは、やはり富裕な人達同士でしか付き合いませんし、自らよりもさらに富裕な人達に対しては迎合し、自らより富裕でない人達に対しては威圧的な態度で接するという、封建色濃い社会を形成しています。また一代で富を成したような人達は、なかなかこの社会に受け入れられないようですし、代々富裕な一族であったとしても、ひとたび斜陽没落の兆しを見せようものなら、多くの人達は手の平を返したように背を向けてしまうといった、富裕な度合いのみを価値基準とするかのような偏った排他的な社会です。

もちろん彼らの社会に限ったことではなく、私達の一般社会も、程度の差こそあれども世はカネなり的な風潮に支配されていますし、根源的本質的な基準においては人は誰もほとんど変わりがないのだと思います。事実私達の多くは、富裕な人達の社会の一員となるべく野望を抱き日夜富を追い求めているのでしょうし、富裕な社会から没落逸脱する人達があれば、入れ替わりに新たな成功者がその仲間入りをするという繰り返しは、まさに長い歴史の過程においても、また広く世界的にも共通の現象であるといえます。

私が出会ったところの富裕な人達のすべてが前述のような偏った人物であったというわけではもちろんありません。中にはその富裕さ故に、物事にこだわらずあくせくしない大らかな人間愛に満ちたような人物や正義感が強く様々な社会活動に勤しんでいるような人物など、例外も数は少ないながらも存在しています。私の記憶に新しく印象の強いところでは、以前このコラムでもとりあげた”最近嬉しかったこと”に登場したボランティア志望の彼もこうした例外にあたります。

しかし、時折ドラマや映画に登場するようなお金持ちの息子や娘が親元を飛び出し、一切の親の財産やコネに頼らずに自力で自らを試していくなどという例は、このかた私は見たことも聞いたこともありませんし、例えば前述のような例外的人物の社会活動ですらも、何を本質的動機や目的としているのかなどと突き詰めていけば、悲しきかな多くの人達と大差のないような単なる異なる形態での自己顕示欲や社会的名誉欲を満たすための行為に過ぎなかったりするのかもしれません。

この物語の主題である「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」と語った初老の彼ほど悲惨ではないにしろ、前述のコングロマリットの総帥も、昨今斜陽没落の一途を辿りつつグループにおける実権の大部分も新たな新興勢力に移りました。他にも実例を挙げだせばきりがありませんが、私が知るところのかつて強大な権力の座に君臨し栄華を極めていたほとんどの人達は昨今衰退してしまいました。もちろん彼らの基準においてのことであって、痩せても枯れても何とやら、没落したといったところで決して私達ー般人の基準にまで降りてくるわけではありませんが・・・。

興こるものは必ず亡びますし、急激に成長するものはまた急激に衰退します。これは存在の摂理なのですから、何人(なんびと)たりともこれを回避することはできません。時代は変遷し時の主役は交代するのは人の世の常なのです。

世界の歴史において、王国制の下であれ、軍事政権下であれ、民主主義下であれ、その本質的かつ構造的な基準においてはほとんど何ら異なるところはありません。支配する者とされる者、そして支配力を徹底浸透させるための手段や道具の違いがあるだけのことです。

王政の時代には支配者は国王ー人であり、国王を頂点とした人の上下関係の大きなーつのピラミッドができあがっています。私達の民主主義国家においては、大勢の王達とそれぞれ彼らを頂点とした中小多数のピラミッドがあらゆるところに点在しているのです。その時々の支配者達は、ある時は武力を行使してー般民衆を抑圧管理しようとしますし、私達の民主主義社会においてはカネこそが権力のバロメーターであり、またまさに武器にも等しい支配力の徹底浸透のための道具であるといえます。

もはやマネーゲームを超えてマネーウォーズの現代を生きる私達は、過ぎ去りし高度経済成長の時代に適合していた競争の原理から今なお脱却することができず、経済の成熟の時代に適合する協調の原理に基づいた新たな方法論はおろか方向性すらも見出せずに、今後進むべき道筋を見失ってしまったままでいるのです。

どれほどのカネとモノに囲まれようとも、人の欲望に限りはありませんから、カネやモノに執着する人達はいつまでも際限なく追い求め続けることになります。あわよくばそうして資産を拡大形成していければまだしも、昨今有望な運用先の選択肢は日々狭まり、自らの資産を目減りさせないようにするだけでも困難な時世です。一度富を手にした人が同じところを廻っていれば良かった古き良き?時代は過ぎ去ってもう久しいのです。

そもそもカネやモノはただそれだけでは決して人を幸福に導くものではありません。これまでの古き良き時代においては、カネやモノはあるに越したことはないものという価値観を誰も疑いませんでした。しかしこれから来たるべき成熟した国際的協調経済社会においては、いかにダブついた資金と物資を困窮している地域に公正かつ公平に還元していくかが最も重要な課題となっていきます。

つまり一部の限られた富裕層あるいは肥大化した組織が、不必要な余剰資産を占有するこれまで良しとされてきた国際的常識が今後徐々に否定され、貧困層など社会的弱者あるいは自由競争の敗者のボトムアップ、つまり世界的な生活最低水準の引き上げのための救済の仕組みが次第に整備されていくのは必然であるといえます。

これまでの自分さえ良ければという利己的発想は、今後はもはやまかり通らず、これまでの既得権者達も、弱者と敗者救済の発想と仕組みを持たざるしてはもう自らの既得権を護りきれずに弱者と敗者の逆襲の矢面にさらされてしまう、それが二十一世紀初頭の時代背景なのです。

昨今斜陽没落の過程を辿っている彼らは、考えようによってはまだ幸せだったのかも知れません。富や名声のはかなさやそれらを追い求めるばかりに他を犠牲にしてしまうことの愚かさに気付くことができたのでしょうから・・・。

ましてや彼らは、本来比類なき感性や能力あるいは突出した勤勉さなどを兼ね備えた選ばれた人達なのですし、取り巻く人達の中には彼らに盲目的に迎合従属するのではなく、精神的に自立して彼らに正面から向き合い支え合う力量のある信頼すベき人達もいるでしょうから、拡大と占有の発想から脱却したところでのまた新たな方向性と方法論による復活に期待したいと思います。

またー方では、凋落の憂き目を知らぬまま生涯を終える人達もたくさんいます。この物語に登場した人物達の多くはそうした人達かと思いますが、彼らにとっては生まれた時からカネやモノは空気のように至極当然のものとしてそこに存在しているものなのでしょうし、そもそも生活と労働は直結したものではないのですから、何をするにせよ取り組む姿勢や方法論は私達一般人とは大きく次元を異にしています。

世間ー般の常識的な発想や価値感によれば、富裕な家庭に生まれて経済的苦労などまったく知らないままに人生を暮していけることは、理想として誰もが羨んで当然のことなのでしょう。しかし私個人の価値感においては、金銭的な苦労の経験すらもない人生など、まるで猫舌の人や好き嫌いの多い人が多くの食べ物の美味しさを知らないままのような、あるいは一度も海外に出たことがない人のような、何とも偏狭的に感じてしまいます。

当の本人としては、熱いものや嫌いな食べ物などなくてもよいものなのでしょうし、海外に出たことがなくとも特に困ることなど何もないわけですから、何ということもないのでしょう。でも私達の経済社会の大半部分は、圧倒的多数を占める中産階級層による儲けた損した、貸した借りたなどという基準の仕組みで構成されているのですし、世間を片目をつぶって渡るような偏った生き方を、私はしたくはないと思うのです。

 

第12号 21世紀を生き抜く負けないビジネス・その3
 何も始めないほうがいい。でも一度始めてしまったら、最後までやり通すしかない。
 「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」/その3   に続く

 


≪EPISODE≫
 ▼Failure
  >file#2-1
   〜間違いだらけのウェブビジネス・その1〜

上記CONSIDERATIONが長編に及びましたので、次号に順延させていただきます。

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