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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0013

●○●第13号●○●


巡り巡ってまたふりだしに・続編3/巡り巡る・その3


→下記EPISODEが長編に及びましたので、エピソードは次号に順延させていただきます。

 

 

 


≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-8 自分を信じる人だけが救われる Vol.8/四十にして立てるか・・・その2


そもそも彼女と私を結び付けてくれたのも、お兄さんでした。彼女と親しくなる以前に、始終彼女宛にかけてくる私の電話に応答するのは、家政婦かお兄さんであったわけですし、私が自宅前で彼女の帰りを待っていた時にも、お兄さんはよく彼女よりも先に帰宅しましたから、度々顔を合わせるうちに根負けするように自宅に招き入れてくれたのでした。

私の彼女への想いをはじめ様々な会話をしてすっかりと打ち解けたところに帰宅した、普段はほとんど表情を変えることもない彼女の驚きの表情は、今でも私の脳裏に鮮明に焼きついています。

こんなに想ってくれているのだから付き合ってやれと、お兄さんが彼女を諭してくれたこともあって、その日以来私は彼女の自宅に公認で出入りできるようになったのでした。

お兄さんは中学時代に二年ほど不登校になった時期があったとのことで、当時は今のようにまだフリースクールのような施設も一般的ではありませんでしたし、それをきっかけにして何事にも独学という習慣がついてしまったようで、学校には卒業するために戻り、高校もほとんど授業を受けることもなく、図書館登校児で通してしまったのだそうです。

お兄さんにとっては、特に何ら将来の目的のようなものがあったわけではなく、学ぶこと自体が楽しくそして自己の存在を確認し主張する手段であったわけですから、当時の学校のカリキュラムを超越してしまい、様々な分野の文献にどっぷりと浸かりきった十代を過ごしたとのことでした。

お兄さんの頭脳は日々進化を続けて、やがて文部省の教育の枠組みなどをはるかに超えて、独自の絶対的な方向性や基準を確立していったようです。

毎日通った図書館には、彼が必要として父親が買い与えた様々な書籍を母校に寄贈した蔵書の一角もあったとのことでした。

お兄さんは、授業には出なくとも、中間や期末、校内外の実力考査は欠かさず受け、突出した成績を収めていたうえに、教師達すらも彼の実力にはまったく太刀打ちできませんでしたし、両親も含めて彼の日常の言動を揶揄したりする者は誰もいなかったようです。

そんなお兄さんの背中を見て育った彼女にも、そうした相対基準を持たない方向性や方法論は、そのまま引き継がれていたように思います。ただ、彼女の場合は、お兄さんのように目立つ個性的な言動は好みませんから、表面的にはごく一般的な学生生活を送っていたという違いはありましたが・・・。

今でも私が鮮明に記憶しているのは、ある日たまたま自宅の彼女のデスクに開かれたままの数学のノートを覗き込んだ時のことでした。ある数式を解く過程が、一般的には数行で済んでしまうような設問に対してほぼ二頁にわたって延々と書き綴られていたのです。

私のように数学に弱い者に限らず、大抵の人達は公式を覚えると思うのですが、彼女のような人達は、問題を解いていく過程で公式を導き出すのです。延々と続く式の途中にところどころ見覚えのある公式が現れ、最終的に解が導き出されるわけです。

何においてもこの調子で、お兄さんや彼女のような人達は、思考や言動の根源は常に無にあって、考えるうえでも学ぶうえでも既存の思想や学問の検証から始めていく、そしてそれらの客体的な基準に囚われないで、あくまで自らの絶対的な基準を創り上げていく姿勢を貫いているのです。

こういう人達との出会いは、それまでの私の人生のうえでの価値観を、あっさりと根底から覆してしまいました。

それまでの私の価値観は、まったくといってよいほど私自身にはなく、両親や友人や教師あるいは近所の人達といった狭い社会における第三者の価値基準によって形成されていました。つまり、第三者から受ける評価の度合いが、そのまま私の価値基準に比例していたわけです。

私の人生は、中学卒業を間近に控えたその時期に、まさに180度方向性を転換してしまったのでした。

その頃までの私の頭の中には、独自性や創造性というものが欠落してしまっていたのです。

自らの存在価値は、第三者による客体的価値基準によって形成されていて、またその事実の認識すらも私にはできてはいませんでしたから、日々の生活も将来への希望も、すべてが既存の価値観や概念や出来上がった体制の枠組みにきっちりと収まってしまっていて、その外の世界観など想像すらもしたことがなかったのです。

お兄さんや彼女は、そうした私にとってはすべてといえる既存の世界観を否定しているわけではないのですが、外側に身を置いてまずは取捨選択、そしてカスタマイズし、さらに不足した物は新たに創り出すということを、ごく自然に日常的に実践していました。

まるで未知の世界に突然放り出されてしまった子供のように、それまでの自身の在り様を全否定されてしまった私は、まさに途方にくれて茫然自失の状態に陥ってしまったのでした。

それからは、まさにすべてをオールクリアーして無の状態からの再出発、一つ一つ最初から組み立て直すといったような、まるで別の人間として生まれ変わったような日々が続いていきました。

まずは自己の価値観など、それまでの自らの在り様の全否定から始めていったのですが、それは本当に難しいことでした。

筆舌に尽くし難いような様々な苦しい試行錯誤を重ねながら、すべての既存の存在の在り様やそれまで慣れ親しんだ自らの思考の外側に身を置くようにしていくのです。

常識や良識、法律、経済、社会、国家、地球、宇宙にいたる、そして植物や動物、さらに人類全体と自分自身というありとあらゆる存在の在り様に関しての認識をオールクリアーしゼロとする作業です。

道を歩けば、青信号でどうして渡るのか、赤信号で車も第三者も周囲にない際に渡ることの是非を・・・、あるいは日々の食事や睡眠の必然性や必要性・・・、などといった日々の生活の様式から、学校、家庭、地域社会、メディアを通してみる日本の社会や国際社会の在り様について・・・、人種差別や経済格差、宗教的要因などによる世界の紛争や戦争の歴史と当時の現状について・・・、あるいは地球環境にいたるまで、当時の私に認識しえたおよそありとあらゆる事象について再考察をしていく日々が続いたのでした。

物事を突き詰めて考えていくために、当時の私がごく当然のこととしてとった方法論、それは物事を客観的にそして多角的に考察していくことでした。

この常識的ともいえる方法論によって、私はさらなる混乱のスパイラルに陥ってしまい、脱却することができなくなってしまったのです。

物事を観察し分析し判断をしていく過程においては、その視点の数だけの結論が存在するわけですし、結局のところすべての人達の個々の価値観や思想の在り様はそれぞれ異なるのですから、万人に共通する真理のようなある一つの結論などもともと存在しえない、たったこれだけの事実に気付くまでに私は、混濁と倒錯の心の迷路を営々と彷徨い続けてしまいました。

そんな単純な事実、つまりは考察自体の無意味さに気付かされたのも、何気ない彼女との会話の中の一言からでした。

それまでは興味が尽きなかったお兄さんと友人達の浮世離れした集会にも、精神的混乱をきたしていた私は参加する気になれなくて一人で考え込んでいたところ、傍らに彼女が静かに腰をおろしたのです。

「・・・・・」

彼女は無言のまま優しい包み込むような瞳で私を見つめていたのです。胸が高鳴ってどうしていいかのかも判らず、私は彼女に尋ねました。

「行かないの?ロフトにみんな集まってるよ」

「・・・・・、いいのよ」

「どうして?みんな待ってるんじゃないの?」

「・・・・・、だって、つまんないんだもん」

彼女の口から出たつまらないという言葉があまりに私には意外だったのです。彼等と私には突拍子もなく思えるような会話をしている時が、彼女は一番楽しいのだとそれまで信じてきたからでした。

「・・・・・、みんなの話すことになんて振り回されてちゃだめよ。このところずっと考え込んじゃってるみたいだから、・・・私も最初はそうだったし・・・」

「・・・・・」

「みんなの話はね、みんな正しいし、みんな間違いなのよ。どっちにしても、結局結論はないの。誰も確かめようがないことばっかりでしょう」

「うん・・・、まあそれはそうだよね」

「どうでもいいのよ、結局・・・。考えることも話すことも何の意味もないの。ただそこにそれがあることを感じるだけでいいのよ」

つぶやくように彼女は話すとしなやかな右手を伸ばして私の後ろ髪をとらえて優しく私を引き寄せたのです。彼女の柔らかな暖かい胸に顔を埋めて、私は不思議なほどに何の感情にもとらわれずに、心から安らかな気持ちに包まれていました。

「・・・・・ほらっ・・・、こうして私を感じるでしょう・・・・・・・・・・はいっ、おしまいっ」

最後に私を優しく抱きしめて微笑みながら私の耳元で囁くと、彼女はまたそっと離れていってしまいました。

ほんの束の間の出来事でしたが、彼女の胸に優しく抱かれ、まるで一体化して溶け合っているかのように彼女の確かな存在を心の奥深い場所ナしっかりと感じ、そしてそれからも「ただ感じればいい」という彼女の囁きだけがいつまでも私の頭の中を巡り巡っていました。

そしてそれからの私は、不思議なほどあっけなくそれまでの迷いと絶望を逡巡する迷路から抜け出すことができましたし、また彼女に対してのそれまでの妄想と昂揚のサイクルからも、まるで憑き物が落ちたように解き放たれて、ごく自然に接することができるようになっていったのです。

それまでの私が陥ってしまっていたのは、結局のところはまた元の木阿弥、客体的価値基準の世界に過ぎなかったのです。既存の価値観や思考の様々な断面に、第三者の尺度を無理やり当て嵌めようとしたところで、私自身にとっての真実を手に入れることなどできようはずもなかったのです。

それからの私は、まるで水を得た魚が自由闊達に泳ぎ回るかのように日々を送り始めたのです。それまでのように思考に頼らず感情で、あるいは論理に依らず直感で判断する・・・、「ただ感じればいい」という彼女の一言だけが、そしてあの彼女のたおやかな胸の中で彼女を通して感じた広大な宇宙の広がりが、その後の日々の私の拠り所となっていました。

この15歳の頃のしばらくの期間で、現在の私に至る人間性の基盤はほぼ出来上がってしまっていたような気がします。

事実、それから今日に至る私の人生は、当時の私なりの結論を、経験により確かめる日々の連続であったように、そして根源的かつ本質的な内面的深層部分については、私は当時からほとんど成長していないように感じるどころか、逆に自信が持ちきれずに様々な遠回りをしてきてしまったように思うのです。

これまで日々の試行錯誤を重ねてきた結果、私が今確信できているのは、当時の私自身は既にほぼ全面的に正しかったということなのです。

彼女の抱擁によって宇宙と一体化できたその日以来、彼女の日々の在り様を観察することからだけでも、私はまるで乾いたスポンジが水を吸収するかのような勢いで物事の本質を感じとっていくことができました。

すべての存在のあるがままの在り様を許容し、考える以前にまずは感じること、さらに考えること判断することの無意味さと愚かしさを認識したところから考え判断していくという、物事の本質を把握するためのコツのようなものを身に付けてからの私の生活は、まさに私にとっては劇的に変貌を遂げていきました。

私は学校自体は大好きでしたから、結局中学・高校の6年間、無遅刻無欠席で通い通しました。

好き嫌いはあっても、私の学校には、尊敬というよりも尊重しうる教師達が揃っていましたし、また少なからずやはり尊重しうる同級生達にも恵まれたからでした。

私は、お兄さんほど過激に授業をボイコットするわけでもなく、また彼女のように表面的には目立たぬ一生徒を演ずるわけでもなく、受けたい授業は受け、出ても他事に没頭していたり、図書館に篭ったりと、その日その日を気ままに過ごしていました。

私が留意していたことと言えば、単に自らの興味と好き嫌い、そして直感とイマジネーションに忠実に従うということでした。それまでは、そしてまたそうし始めた当初は、周囲からの反応や与える影響を考慮してしまい、なかなか勇気を持ちきれませんでしたが、それも単なる私自身の思い込みに過ぎなかったことを、やがて周囲が証明してくれました。結局自らの気持ちの持ち様だけの問題であって、私一人の在り様がどうであれ、周囲に迷惑さえかけなければもともと何らの問題もありはしなかったのです。

私は本当に勉強をしなくなりました。それまではオールマイティーにすべての学科でトップの成績を収めることを当然のこととしていましたから、それなりに勉強もしていましたが、それからは英語と国語を自己流で勉強する程度で、他の教科の勉強は放棄してしまいました。当初は友人達も驚きましたし、それなりに教師達や両親からの抵抗もありましたが、何事も継続していると受け入れられてしまうもので、学内で私はトップから一気に脱落し、後ろから数えた方が早いポジションに定着してしまいました。

相談だ、叱責だと、毎日のように職員室に呼ばれましたが、そのうちに教師達もあきらめて受け入れてしまったというよりも、積極的に私の新たな在り様を評価してくれていたように思います。私の成績は、教科によっては学校始まって以来の定期考査連続3回零点などという極端なものでしたが、その教科の教師は勝手に落第点すれすれクリアーの点数をつけて進級させてくれたりといった具合いでした。

自らが変わってみて初めて気付いたことでしたが、周囲の教師や友人達の一部には、やはり実に自然に自らに忠実な在り様に徹している人物が少なからず存在していたのです。

6年一括教育の高校に進むと、国語の教師は、文部省のカリキュラムなど完全に無視して教科書を一切使用せず、漢字と熟語しか教えていませんでした。毎授業毎に書き取りのテストをして、8割以下の成績の生徒を前に出して順番にビンタをして、後は毎回自ら作成したプリントにより熟語をひたすら訓読みさせていただけでした。

英語の教師も同様で、英字新聞をただ読ませるだけ、質問に答えられない生徒のお尻を竹刀で叩いていただけでした。

日本史の教師は、教科書にない基準に立ち入りすぎて、授業では結局江戸時代に入ったところで終わってしまいました。

今から考えると、当時よく問題にならなかったものだと思います。生徒達もそれで特に文句など言いませんでしたし、受験に熱心な生徒は、大抵は進学塾が学習の中心で、学校はおまけのようなものでしたし、クラスも前の席と中間、後ろの席では、まったく別の学校かのようにその性格も雰囲気も異なっていました。成績の良い学習に熱心な生徒は前列に、平均的な生徒は中間までに座り、教師達も前列と中間までしか授業の対象にしていませんでしたから、後列は授業の最初にまず並んでビンタや竹刀を受けた後は、もう好き勝手なことをしていましたし、それで教師も咎めたりもしませんでした。読書をする生徒、ヘッドホンで音楽に興じる生徒、寝袋で眠っている生徒もいれば、持ち寄った材料ですき焼きパーティーをしている生徒達もいるという具合いです。

暴力教師達(特に悪い意味ではなく)は、卒業式の日には池に放り込まれたり、ハリセン袋叩きにされたりと、後列の生徒達にお礼参りをされていましたし・・・。

生徒達にもユニークな人物が少なからずいました。私の学校はカトリックで、クラスに数人神学生といって将来神父になる前提で在籍している生徒がいたのですが、そのうちの私の仲がよかった友人は、聖書の暗記以外には何もしていませんでしたし、ナントカ通信などといって、ひたすら世相評論や自らの哲学をガリ版刷りの新聞で発行し続けていた生徒、既に作品を出版していた小説家や、漫画家として名が既に通っていた、あるいは絵描きとして各賞受賞の常連、男子ながら日本舞踊とお茶の師範であった性同一性障害の生徒もいました。

もちろんごく少数ながら例外もあって、マイナーなあるいは破滅的発想サイクルで横道に逸れてしまう生徒もいました。よくあるチャラチャラした他人にたかったり、やみくもに暴走したりするような可愛いい不良はあまり見当たらず、暴力団と密接につながって売春やドラッグなどの組織を率いて逮捕されてしまうとか、過激派に加わってしまったりなどと、知的水準がもともと高い分横道に逸れ出すとその度合いも深刻でした。

いずれにせよ、教師達も生徒達も、それぞれの個性が尊重されるような環境がベースにあって、日々様々な事件が起こるも、そんな学校が私はとても気に入っていたのです。

私が自らの価値観や考え、その時々の感情に忠実な在り様に徹するようになると、取り巻く人間関係も変わっていきました。

好き嫌いではなく、損か特かというような利害意識を前提にしていたような人達は自ずと離れていき、飾り気のないあるがままのつまらない私自身を許容してくれる人達だけが残りました。

世間体というのでしょうか、それまで私を異様なまでに持ち上げていた近所の人達や、取り巻いていた知り合い以上友人未満の人達を初めとする多くの人達は、見向きもしなくなっていきました。

私自身が、第三者の価値基準や自らへの評価などといった客体的価値基準に因われずに、自らの価値観や考えまたその時々の感情に忠実に順ずるような絶対的価値基準に徹するようになってくると、自ずと同様にそれぞれ各人の絶対的価値基準に基づいて生活している人達を見つけることができるようになっていきました。

それまでの知り合いの中にも、少なからずそのような人物はひっそりと隠れていましたし、それ以降に出会い関わる人々の中から確実に絶対的価値基準生活者を選り分けることができました。

それに加えて実際には一度も出会ったこともないような相手や故人達に対しても、またさらには物語上などの架空の人物達にすらも、現実世界上と変わらないような親近感を抱きつつ、メディアを通して知り及ぶ様々な彼らの言動や生き様からも多大な影響を受けてきたものです。

たかが生活・・・、されど生活・・・であって、この世知辛い世の中においては、多くの人々は自らを擁護するだけの発想からなかなか脱却することができず、第三者や自らを取り巻く環境に対して損得勘定以外の尺度をなかなか持ち得ないものです。権力に屈服し、社会や体制に迎合し、主体性と積極性を世界の先進国中で最も持ち得ない民族、悲しきかなそれが現状の私達日本人の在り様なのです。

来るものは拒まず、去るものは追わず、流れに逆らうでもなく、それでも流されてしまうわけでもなく、それからの私は大げさにいえば運命に導かれながらも、ただいつも自らが許容し納得することができる私自身であり続けることだけに留意しつつ、四十歳を迎えるまでの日々を過ごしてきました。

自らの印象としては、淡々と日々を過ごしてきたつもりでいるのですが、私自身が望んだわけではなくとも、流れに逆らわずでも逃げずにいようとしているだけで、様々な事件の渦中に身を置いてしまうこととなり、たまたまそうした結果として身近な第三者の目には波瀾万丈とも映る日々を過ごさざるをえなくなったように思います。

それにしても、既得権者層や組織や社会に隷属せず、自らの尊厳を護り続ける、たったそれだけのことが現状の私達を取り巻く環境のもとでは実に困難ですし、私もこれまでの日々を振り返れば、そんな基本的人権の基準の私が私であり続けるためのささやかなプライドを護るために支払った代償は、とても大きなものになりました。これだけ自尊心が根幹から欠落してしまった不公平かつ不公正な社会とそれに飼い慣らされてしまった多くの人々の在り様の必然性の一端がここにも伺えます。

私のこれまでのささやかなプライドを護る戦いの日々については、また別のショートコラムシリーズにて言及していくこととして、ここでは戦わずして自尊心を護ることはできず、自らの生を救うことなどできはしないということを強調しておきたいのです。

 

第14号
 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-9 自分を信じる人だけが救われる Vol.9/四十にして立てるか・・・その3
                                                  に続く

 

CoolShot #13/ 2003.06.22
Title / The reflection

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