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●○●第23号●○●
代理母斡旋のコミッション〜その2
話題がODAに言及しているので、これを題材として、従来から現状につながる歪(いびつ)な経済構造のある本質的ー面を考察してみたいと思います。
諸悪の根源的要素は、以下の二点に集約されています。
まずー点は、―般大衆の多くに顕著な自立心の欠落です。私達が自分自身に自信イコール誇りを持てず、自已防衛本能と目先の損得勘定に支配されて第三者に迎合したり、組織や社会に従属する自らの個性や尊厳を放棄してしまうような在り様を良しとしまっているうちは、現状の社会に内在する諸問題が解消されていく可能性はほとんどないといっても過言ではありません。
現状の社会の本質的な仕組みを構築してきた利用し搾取する側、つまり自立心を放棄した大多数の利用され搾取される側が依存従属する対象としての現状の社会における少数の既得権者層は、自分達の権利や資産の維持拡大に終始して、帰属する一般大衆のささやかな立場や都合など何処吹く風やら全く関知などしてはいません。
また少し極端な表現をすれば、現状の私達の社会は既に高度に完成されており、そもそも深刻な問題など存在していないのです。問題視をして声を上げているのは、何らかの被害を直接受ける当事者を中心とした搾取される側なのであって、搾取する側から問題提起がされることはほとんどあリません。
つまり現状の社会に限らず、何時の時代においても、世界の何処においても、常に社会とは搾取する側の論理によって構成されるものですし、ましてや発展から成熟の段階に入った私達の自由競争資本主義社会は、競争の勝者つまりは搾取する側を擁護するに充分なだけの高い完成度を有しているのです。
搾取する側は、自らの立場や権利が侵害あるいは剥奪されるような危険性が生じてこない限りは、決して自ら行動を起こすことはありません。何故なら彼らは現状の立場とそれを保障してくれる現状の社会経済構造に満足しているのですから、それを自ら変えたり壊そうとすることの方がずっと不自然なことです。
搾取される側も、搾取する側の自らの立場を護ろうとするだけの基準に過ぎない消極的擁護に依存従属しつつ、糾弾の声をあげる勇気も持てないばかりか、そもそも自らが何処に向かいたいのか、何を手に入れたいのかも判然としない、自立からは程遠い次元から脱却していくことなくしては、ー歩も前には進みませんから現状の事態が改善されていくこともありません。私はー方的に搾取する側を非難しているわけではありません。搾取する側に回るためには本人の能力も努力も必要なのですし、競争に勝ち残って得た立場なのですから、私達が現状の競争社会を是としてしている以上、賞賛や羨望は受けても非難されるいわれなどまったくありはしません。
それに搾取する側においても、上には上が存在するわけですし、ほとんどの人達がさらなる上を目指そうとするのが、そして誰もが搾取される側の面倒など、自分より上の立場の者の役割であって、どうして自分がと考えてしまうのが人としての自然な成り行きであると言えます。
誰が最も上に立つ勝者なのかもなかなか判らず、一部の搾取する側と大多数の搾取される側という社会の構図だけが存在し、搾取する側が搾取される側を擁護救済するという仕組みを持たないことが、私達の現状の社会の欠陥であると思うのです。政府も官僚も大企業のトップの多くは、昨今すっかりとサラリーマン化してしまい、事無かれ主義の自らの立場と権利の防衛擁護しか念頭にないのですし、そういう人達が糾弾されるような常識は、現状まだまだ成熟していないのです。
それに搾取する側もされる側もほとんどの人達は、結局は自らの利益だけを追及しているに過ぎないのですから、せいぜい一部で搾取する側とされる側に入れ替わりが生じる程度であって、全体的な視点から見れば、誰が搾取する側であれされる側であれ、第三者にとっては何の違いもありません。つまり事態が改善される要素は悲しきかなどこにも存在していない現状なのです。
まずは私達が、社会や組織に対する依存精神を棄て、自立した一個人としての誇りを強く持つことが最初の一歩です。
そして、公正かつ公平な、また社会的弱者や競争の敗者に優しい社会づくりの必要性というコンセンサスを高めていくことができれば、それがやがて世論となり、搾取する側を糾弾する風潮が生まれ、搾取する側も自らの立場や権利を守るためだけの消極的防衛意識に基づくものであったとしても、それなりの行動を次第に余儀なくされていくことでしょう。
そしてさらに搾取される側を最低限擁護せずしては搾取する側に留まることが許容されないような社会通念が形成され、またひいては、搾取するされる関係自体が消滅し、相互に理解納得をし合ったうえで役割分担としての指導する側とされる側という関係にまで高めていくこともできるでしょう。
そして最終的には、指導するされるという双方の立場自体がフレキシブルに設けられたり解消されたり、またそれぞれの分野での得意不得意、あるいは本人のやる気の有無などによりシームレスに立場の転換が行われるようになれば理想的といえます。
いずれにせよ、搾取される側が、まずは搾取する側への依存従属意識を捨て去り、自立心と自尊心を養っていくことからしか、公正かつ公平な活気ある社会づくりは一歩たりとも進んでいくことなどありえないのです。
ここまで延々長きにわたって、ODAを題材として、従来から現状につながる歪(いびつ)な経済構造のある本質的ー面を考察するにあたって、諸悪の根源的要素として集約されている二点のうちのー点、―般大衆の多くに顕著な自立心の欠落について言及してきました。もう一点の諸悪の根源的要素、それは現状における税制です。
右肩上がりの経済成長と企業の永続性という神話も崩れ、返済不能な膨大な借金体質が白日の下に晒され、迫り来る高齢化社会における福祉も破綻し、人の数よりはるかに少ないパイを奪い合うこれからの21世紀という弱肉強食の経済戦国時代を迎えようとも、最後まで存続していくであろう窮極の安定収入、それが税金です。
私達の税金で扶養される公務員の数は、今後減少の一途を辿っていくことでしょうが、ここでも醜い生存競争を勝ち抜き、最後まで生き残る輩(やから)が必ず存在するのです。
カネの集まるところには、どこからともなく大勢の人が集まります。カネの匂いを嗅ぎ分けられる人々は、経済が先細る昨今のようなご時世においてはなおさらのこと、意識の有無にかかわらず、手を変え品を変え、よってたかって税金に群がることとなるのです。
つまるところ、税金先にありきという私達のほとんどが疑うこともない現状の制度が、諸悪の根源的原因なのです。昨今の税金の使われ方に満足している一般国民は、一体どれほど存在しているのでしょうか。銀行や大企業ばかりが救済され、現実の需要とはかけはなれた公共投資、反面の貧しい社会福祉・・・、枚挙にいとまがないほど不公正さ不公平さ、そして無駄に満ち満ちているのです。
民間の企業を例にとってみても、どこに有り余る予算が先にあって、それからどんな事業をしようか考えるような企業が存在するでしょう。ましてや事業の採算は度外視されており、誰の責任も追及されることはないのです。こんな尋常ではない状況に、私達のほとんどが疑問すら持たない・・・、私にはこのことが不思議でならないのです。
まずは何より先にプランありきですし、それからプランに基づき試算をし、事業予算計画を策定すべきではないでしょうか。若干の余裕を見たとしても、必要額が決まってから税金を現状の比率に応じて国民に税負担を求めればよいことなのです。
こうした本来あるべき体制下においては、プランなき者、そして社会的目的のない者に一般国民が搾取される状況も生まれません。カネのないところに有象無象は集まることはないのです。
世界は広く様々な価値観とそれらに基づく様々な社会体制が存在しています。税制について言えば、税制自体が存在しない国も少なからず存在していますし、税制が存在しないどころか、某石油産出国を例にとれば、石油を諸外国に輸出して生まれる収益により、豪華なメイド付きの住居と充分すぎる生活費までもが支給されるという、労働の概念すらもないような国すら存在するのです。ある国の常識は他国の非常識であることは当然として、他国の常識を取り入れるべきだと主張したいわけではありません。しかし、私達の国の常識は、一部の既得権者を擁護するためだけに形成されており、不公正かつ不公平の極みとも言うべきその本質的在り様に対して、私達一般国民が今こそ立ち上がるべき時なのです。
そのために、私達の一人一人が現状の社会や組織に依存従属するサイクルから脱却し、自己の尊厳の確立と自立へのサイクルに移行していくことが不可欠であることは、Daily Short Columns上でも繰り返し言及してきているとおりです。私達が自らの頭で考え、発言し、行動し、そして自らの存在と言動に対して責任を持とうとする気運が広く高まらない限りは、この既得権者の立場と権利を擁護するための高度な完成度を誇る現状の社会構造を打破していくことなど、決してできようはずもないのです。
ODAも、そうした私達の税金が浪費され活用されていない典型的なー例です。
公共投資の地域社会への貢献などという大題目と同様に、発展途上国への援助、ひいては国際社会への貢献などという大義名分がありますし、もちろんそのすべてが無駄だというわけではありません。しかし、ODAの性格上、また供与の構造上の問題から、供与される金銭や物資がなかなかに本当に必要なところまで届かない、正確には届くまでに相当に目減りしてしまうことが最大の問題点であるといえます。
何よりボランティア活動を体の良い事業としているに等しいような組織を通しても、その組織の運営維持費や人件費などの相当分の経費が飛んでしまいます。
また被供与国側でも、その窓口となる議員や組織を通すうちに、彼等既得権者達が自分達にとって充分なだけの上前をはねてから、良くても搾取され利用される一般国民に届くわけですし、悪ければまったく届くことはないのです。
このところ北朝鮮関連のニュースがマスコミを賑わせていますが、何も北朝鮮に限ったことではなく、程度の違いはあるにせよ、どの発展途上国においても大同小異であることは否定できません。
ODAがダムや発電所、水道・電気・ガス、通信などといったインフラに供与される場合も同様です。結局潤うのは、被供与国の議員や官僚、ゼネコンなどという既得権層と彼等に従属する特定の人々だけですし、日々の暮らしにも事欠くような一般国民の生活水準の向上にはなかなかつながってはいきません。
いずれにせよ、ただODAを供与するだけでは、ほとんどその実効性など期待できようはずもありません。私達の税金を有効に使うためには、ODAの被供与国と協調しつつ、企画立案段階から案件の実行、そして日常と将来への発展的活用の段階まで、一環して私達自ら推進していくくらいの気概が必要なのです。
何より私達国民がしっかりと監視していきつつ、有能な責任感のある官僚を中心に、民間のアナリストやスペシャリスト達を加えて、まずは案件立案と推進管理をしていくチームの強化が必要です。そこに各種NPO(NonProfit Organization=民間非営利組織)を連携させるとか、一定規模以上の企業経済的かつ人的協力を義務付ける法制化をすることも有効な一案だと思います。
今後破綻必至の高齢化社会を迎える私達の国の高齢者や希望者を海外に移住させることや、景気低迷期の余剰労働力を海外に振り向けるといったようなドラマティックかつドラスティックな方策も、これからのグローバル社会では徐々に一般化していくことでしょう。
そもそもODAのような無償資金供与や様々なボランティア活動の存在自体に対して、私は懐疑的なスタンスをとっています。もちろんそうしたすべての活動の在り様に否定的なわけではありませんが、自らの利益のみを追求するという悲しい一般的な人としての在り様を目にする度に、こうした無償の活動を国際交流のスタンダーズとしてしまっていること自体に無理があると思うのです。元々無理のある奇麗事や絵空事のスタンスから脱却して、そろそろ実効的な企業の収益活動としてのスタンスによる幅広い密接な国際交流の段階に移行していくべき時だと私は考えています。
まずは家族から、会社、地域社会、そして国家という限定された枠組みの中でしか発想しようとせず、自らの立場や利益を擁護しようとする発想しか持てずにいることが、様々な国際社会問題を増殖させることはあっても解消にはつながっていかない根本的な要因であるといえます。
私達の国に代表される世界の先進諸国における昨今の共通課題は、国際的経済成長低迷とデフレスパイラルから如何に脱却していくかということです。高度経済成長期に適合していた過ぎ去りし時代の方法論は、もはやこれからの経済の成熟の時代には通用しません。過去の前例や検証の上に成立している学問をベースにした机上論者達に政策を依存すること自体が不毛なのです。何故なら、少なくとも先進諸国においては、人類の歴史における前例のない国際的繁栄の時代を迎えているからに他なりません。(続く)
☆本コラムは、2002年3月に執筆を開始したものです。
≪EPISODE≫
▼Series (2) 〜日常の風景〜
File #2-15
自分を信じる人だけが救われる Vol.15
/四十にして立てるか・・・その4
→上記が長編に及びましたので、エピソードは次号以降に順延させていただきます。
≪号外≫
サイト開設3周年記念コラム
あっと言う間にこのサイト&メールマガジンもはや3周年、されど未だ・・・/続き
("What's Cool Business!?" & "What's Cool Life!?"共通)
→「サイト開設3周年記念コラム/あっと言う間にこのサイト&メールマガジンもはや3周年、されど未だ・・・」の続編掲載も、次号以降に順延させていただきます。悪しからずご了承くださいませ。