バックナンバー 0018
●○●第18号●○●
巡り巡ってまたふりだしに・続編3/巡り巡る・その3
→下記EPISODEが長編に及びましたので、エピソードは次号に順延させていただきます。
≪EPISODE≫
▼Series (2) 〜日常の風景〜
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自分を信じる人だけが救われる Vol.12
/孤高のフォトグラファーとさすらいのブルースシンガー
/さすらいのブルースシンガー・その2
Where And Who Is The Very True Artist?
Where and who is the very true artist?・・・、私は物心付いて自らの進むべき道を定めて以来、いつもこのことを念頭に置いて日々を過ごしてきました。
気心の知れた親しい友人達へを除いてはほとんど口外したこともないのですが、私のショートコラムの長期にわたる読者の方々はご賢察のことかもしれませんが、かく言う私自身もそのthe very true artistをこれまでずっと指向してきましたし、それはこれからも私の生ある限りずっと変わることはないでしょう。
かつての孤高のフォトグラファーが私の心中から消え去り、そしてまたさすらいのブルースシンガーの存在が新たに刻まれました。同様にこれまでも多くのアーティストライクな人々が私の上をまた傍らを通り過ぎていきましたが、なかなか私の心の琴線を打ち震わせてくれるようなthe very true artistには出会えるものではありませんし、私自身がその基準に到達できるわけでもありません。私を含めた自己完結的プラスアルファーあたりの基準でのどんぐりの背比べから突出していくためには、相応の才能も努力もそして運も必要になるのです。
さすらいのブルースシンガーを中心とした様々な街のアーティスト達によるそのコミュニティーの在り様を垣間見ても、私の心の琴線を打ち震わせてくれるようなアーティストは、さすらいのブルースシンガーの他には見当たりませんでした。皆それぞれにユニークで、それなりに共感を覚えたり感心させられたりはしたものの、私にとっては彼らのそれぞれの在り様から何らか影響を受けるというような基準にはありませんでした。
昨年に引き続き今回のライブでも大きな感動を受けたにもかかわらず、さすらいのブルースシンガーから直接あるいは仕事仲間の彼女を通して、また彼を取り巻く多くの人々をも含めた私に認識できうるだけの総合的な彼の在り様にすらも、前述のようなポジティブな局面ばかりでなくネガティブな印象ももちろんありました。
例えば、前回も今回もライブ会場で彼のCDを販売していたのですが、これだけ彼のライブに心動かされつつも、私は彼のCDを購入する気にはまったくなれませんでした。それは、さすらいのブルースシンガーと私の好みという感性のズレからだけではなく、曲自体の絶対的普遍的完成度という理由からでしょうか、どうしても私の日常においてCDで彼のパフォーマンスを聞きたいとは思えなかったのです。しかしライブでこそ、逆に言えばライブでしか彼の真価に触れられないとなれば、また機会を見て彼のライブにこれからも足を運び続けるしかないことでしょう。
逆に曲自体の絶対的普遍的完成度が高いケースも、必ずしもあてはまらないにせよ、やはり広く認知されたメジャーなシンガーソングライターには多く見受けられます。ライブではサウンドやパフォーマンスのクオリティーがどうしても低下してしまいますから、彼等のケースはライプに出かけていくよりもじっくりとCDを鑑賞したくなります。
そういう意味でも、限られた地域の限られた数の聴衆にしか訴求できないライブ主体のアーティストが世間に広く認知されていくことは、現実問題としてなかなかに難しいと言えます。どのように贔屓目に評価しても、さすらいのブルースシンガーのオリジナルナンバーをただCDで聴いたところで、ライブで味わうことのできるあの感動はほとんど伝わらないように私には思えてしまうのです。
売れようと売れまいとさすらいのブルースシンガーというアーティストの真価は、本質的な基準においては何ら変わるものではありません。また世間一般の高い評価を受けるようになった後でも、かつての孤高のフォトグラファーのように自らの絶対的価値を貶(おとし)めてしまう場合とて珍しくはありません。
純粋かつ崇高な創作活動も、日常生活に埋没させてしまうことなく、またそれを生活の糧として位置付ける際には迎合してしまうことなく相手を満足させねばなりませんし、いずれにせよ日々の暮らしと仕事の中でその絶対的価値を維持ひいては増大させていくことは、一見不可能と思われてしまうほどに困難なことなのです。
多くのアーティスト達には、彼等を支えてくれる第三者の存在が欠かせないのが一般的実情ですし、そうした第三者の支援を受け続けるためには圧倒的な才能や人間的な魅力などといった何らか支える第三者の心の拠り所が必要でしょう。
アーティスト自身が創り上げ堅持するところのものを絶対的価値とここで定義するのであれば、第三者のアーティストに対しての評価は相対的価値として位置付けられます。二度までも奥さんに逃げられてしまったというところにも、さすらいのブルースシンガーのアーティストとしての相対的価値の度合いが表れています。
真価を見極めようとする場合には、そのアーティストの周りを見渡すのが早道です。遠巻きに傍観する無責任な第三者は問題外として、実質的にアーティストを支援している身近な第三者の率直な印象に優る的確な判断基準は存在しないと言っても過言ではないでしょう。
絶対的価値と相対的価値は、一見正反するものとして捉えられがちですが、優れたアーティストの優れたアートワークであればあるほどその両者の相違は小さくなっていき、究極的には完全なる一致に向かいます。その一致にどれだけ近いかが普遍的価値の度合いであるといえます。
孔子の「〜六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」の境地、つまり六十歳の頃、人の言葉が素直に聞けるようになり、そして七十歳の頃、自らが思うままに振る舞って、それでいて道を外れることがないようになるということなのですが、それは、自我という窮極の個性と正反する社会性との内外における完全な一致という人としての在り様の境地を表わしています。
創作活動は、アーティストの絶対的価値からスタートします。創作活動の最初の段階における絶対的価値とは、自己過信的思い込みであったり、異性の関心を引きたいといった美媚(びたい)意識の転嫁に過ぎない程度のものでしょう。
そうした自己完結的な基準に留まり続ける自称アーティスト達も世間には星の数ほども存在します。しかし自称がとれたアーティスト達は、自らの絶対的価値を高めつつ、第三者の評価という相対的価値とのせめぎ合いの基準に入りますが、この段階で自らの絶対的価値の度合いよりも第三者の相対的価値の度合いが大きくなってしまうことで、多くのアーティスト達がアートシーンから脱落していくことになります。
第三者の評価という相対的価値基準が自らの絶対的基準を上回ってしまった状態、つまり第三者に迎合するサイクルにおいては、事実上継続的な創作活動は成立しえません。第三者からの評価を得ることを第一義とする所謂(いわゆる)受け狙いを続けていても、たとえ小手先の器用さで一度や二度の第三者の高い評価を得ることができたとしても、そんな誤魔化しがいつまでも続くはずもありません。
世間には過去の他人のアートワークをリメイクしたり寄せ集めてコラージュする程度でデザイナーなどとアーティストを謳う厚顔無恥な輩(やから)が蔓延していますし、そんな基準であっても昨今の商業デザインの世界では、そこそこ評価も得られて生計が成り立ってしまったりすることも珍しくはないのですから辟易してしまいます。
さらに性質(たち)が悪いのは、利害目的の第三者によって演出されたアーティスト誤化しの存在です。先生などと祭られ相応な社会的立場を得て、そんな自らの在り様に対しての自覚も持たないうえに、ともすればその意識の有無にかかわらず若い真の才能の芽を摘んでしまうような言動に終始してしまう輩も少なくありません。
個性的で創造的で刺激的で魅力的な真のアーティストの存在に触れることのできる機会にはなかなか恵まれないものですが、鑑賞する私達の側も自らの絶対的価値基準に基づいて如何に心の琴線を震わせられるのかという基準で様々な事象に対しての認識判断をしていく日々を過ごしていれば、メディアを通してあるいは日常身近なところに様々なアーティスティックな存在を発見することができるものです。
アートとは、その幻想に惑わされてしまいがちですが、本来何も特別なものではありません。代表格の絵画とてただのお絵かき、文学とて絵空事の作り話、音楽とて楽器を演奏したり唄ったりするだけの、どこの誰にでもできてしまうことでしかありません。
一つのことに全身全霊を傾ければ、どんな人であっても傾倒しただけの相応な上達や成果を期待することができるのですが、多くの人々つまり凡人には、まず自ら始めるということがなかなかできませんし、ましてやたとえ始めることができたとしても、あきらめないで永々とやり続けることのできる人つまりアーティストは、またさらにごく限られた存在であるといえます。
本来好きなことと得意なこととはまったく異なるものなのですが、そのいずれの理由からであっても何らかの事柄に専心していくこと自体が実はアートへの入り口であり、その継続の過程における創意工夫や日々の研鑚の度合いなど本人としての要因はもちろんのこと、第三者からのあるいは環境的要因による様々な影響も相まって、アートワークとしてのクオリティーは総合的かつ偶発的に形成されていくものであると私は考えています。
例えば以前に姉妹紙”What's Cool Business!?”上にてとりあげたことがある呑んだくれの大工の棟梁、私のヘアーカットをしてくれる美容師の彼、学生時代からの友人のフォトクラファーの彼などをはじめとして、彼等それぞれの日々の在り様に新鮮な驚きを感じさせられ、また腕組みをして唸らされたり、時には胸が詰まって息苦しいほどの感動を与えてくれるような私の周りの様々な街のアーティスト達は、誰の周りにも実は多く存在していることと思います。
なかなかその存在を見出すことが難しいだけであって、私達の周りの身近なところに実は多くの優れたアーティスト達は埋もれているものです。彼らの多くは自分自身の納得という絶対的価値基準の一つに基づいて自らの在り様を創り上げていますし、アートワークを必要以上に第三者に訴求していく必要性も持たないことが多いので(本人がアートワークとの自覚を持たないことも珍しくありません)、普段はさほど目立った存在ではないことが一般的であるといえます。
商業的価値は、相対的価値基準の一つでしかありません。著名なアーティストとして認知されるようになれば、創作活動の成果に対する相応の報酬も期待できるようになりますが、そうした立場に身を置いてしまったアーティスト達の多くは、自らの絶対的価値基準を貶めていってしまいがちです。それは顧客の満足が優先されるということがビジネスの原則であるからですし、顧客を満足させつつ自らの完全な満足を求めることは、まさに孔子の言う自我という個性と正反する社会性との一致という人としての在り様の境地に達することを意味する至難の業であるからです。
また、世間には先に相対的価値基準ありきの、例えば著名な画家になりたいという本来二次的目的が先にあって、そうなるために何をどのように描くべきかを模索していくといったような、本来第一義にあるはずの絶対的価値基準をおろそかにしてしまう、あるいは持ち得ないといった本末転倒してしまった人達が大多数であると言えます。
好きなことや得意なことを日々極めていくうちに、アートワークとしての絶対的価値基準が高まり、相応な相対的価値基準が付いてきて、やがて理想的には一致してその名を歴史に刻むようなThe Very True Artistが生まれるのだと私は確信しています。
例えば・・・、それまで積み上げた味の水準を保ちつつも日々試行錯誤を重ねて新たなさらに高い水準の味を追求し続ける料理人、毎年様々な工程を厳密に管理しながら毎年一定の品質を維持しつつ斬新な新たな銘酒を創作し続ける酒蔵の杜氏、愛情と根気で米や果物や野菜を育んでいる農家、既存のテクノロジーに立脚しつつ様々な優れた新製品を生み出し続ける産業界・・・、どんなところにも様々なアーティストは存在していますし、私達は彼等と直接出会わずとも彼らのアートワークを通して彼らの存在とその在り様を窺がい知ることができます。
そしてそうした世間に埋もれた様々なアーティスト達の中から、絶対的価値基準が突出して高くそして相対的価値基準が限りなく一致したところのThe Very True Artistが生まれてくるのだと思います。
私の場合、私自身が日々高めつつある絶対的価値基準の程度からすれば現状相対的価値基準は皆無に等しい程度かとは思いますが、それでいて焦らずくじけずその一致に向けて試行錯誤と研鑚を続ける自らの存在がアートであり、自らの日々の在り様と第三者などすべての事象との関わりから生み出されるあらゆる成果がアートワークであると自認していますから、これまでの人生および現況もそして今後の方向性もあるがままに許容しています。
何もせず、何も残さず、何者にもならない・・・、それが私が確信し目指すところの私にとっての究極の在り様、つまり孔子の「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」という、自らが思うままに振る舞いながらもそれでいて道を外れることのない自我という窮極の個性と正反する社会性との内外における完全な一致という境地に他なりません。
私自身に完全に束縛され尽くすこと、つまり究極の完全なる自由を目指す度合いが高まるほどに、自ずと私自身に限らずすべての存在をあるがままに肯定許容することができるようになります。しかし、それはすべての事象の在り様を善しとしてしまうものではありません。
すべての存在の在り様、つまりすべての結果にはその原因と経緯が存在しますから、たとえ同一の結果を呈していたとしても必ずしもそれらが本質的に同一であるとは限りません。またすべての存在と自らのつながりを実感することができるようになれば、自らの在り様をあるがままに肯定許容するためにまず他者の在り様を肯定許容できるようになりますし、そして他者と自らの間の適切な距離が計れるようになり、自らにとっての良し悪しや好き嫌いを自らの絶対的価値基準に基づいて自在に判断できるようになるのです。
発見→観察→考察→判断→実行→継続→実現→脱却のサイクルを繰り返しつつ、いつでもどこでも私はただ私自身であり続けることだけに終始しながらすべてを成り行きに任せて日々を過ごしてきましたし、それはこれからも変わることはないでしょう。すべての存在には必ずその意味が存在し、それぞれの在り様がつながり合うなかで相互に作用し合いながら、すべての在り様は常に変遷を続けているのです。
自らの日々の試行錯誤と研鑚を続けていく過程で陥り易い落とし穴は固執です。人は誰もそれまでこつこつと積み上げてきた事柄にどうしても執着してしまい、自らのその時点における在り様を評価してくれる第三者だけを愛し善としてしまいがちです。もともと間違った事柄や長い月日を経る過程で方向性がずれてしまったような事柄にいくら終始専心したところで、大抵の場合に正しい直感的な本来の好き嫌いや物事の善悪の判断を捻じ曲げてしまうことはできないのです。
常に自らの真髄にある内なる心の声と正対しながら、限りなく完全に自分自身に束縛され尽くすことを目指して行動を起こしたその瞬間に人はアートへの入り口に立ち、そこに一人のアーティストが誕生します。アーティストはあくまでこの最初の段階から既にアーティストであって、第三者などの世間の評価という相対的価値基準の有無に左右されるものではありません。
アーティストが自分自身であり続けようとする過程において生まれてくる様々な成果がアートワークであり、アートワークとはそのアーティスト自身の存在とその在り様、まさにアーティストの人生そのものであるといえます。
そこには他者との競争もなく第三者の評価も何らの意味も成しません。ただただ自分自身を探し求めていく楽しくも厳しい日々が永々と続いていくのです。そしてやがてアーティスト自身が、自らが追い求めるあるべき在り様を確信的にイメージできる基準(絶対的価値基準を確立しようする段階)に達してきたところで、相対的価値基準とのせめぎ合いが始まります。
自らが追い求めるあるべき在り様を実現するためには、自ら以外のすべての他者の在り様をあるがままに認識許容できなければなりません。自我という窮極の個性と正反する社会性との内外における完全な一致という境地に辿り着くことができれば、必然的にそれまで積み上げてきた自我への固執から開放されて、自らをも他者と同様にあるがままに認識許容できることでしょう。
それは視点を変えれば、一人のアーティストとしてアートへの入り口に立った自らの出発点に還ることに等しいのです。そのことが理解できれば、売れても売れなくても、歴史に名を刻もうともたとえ埋もれたまま死すとも・・・、いつどんな時にも、何物にも執着せず、何物にも依存せず、自分自身に完全に束縛され尽くし続けることができる・・・、そんなスタンスのアーティストこそ、The Very True Artistであるということに気付かされます。
まずは自らの善いところも悪いところも、また好きなところも嫌いなところも、すべて丸ごと受け止めるところが立つべき出発点であるといえます。ただしそれは自らの在り様のすべてを善しとしてしまうことでもありません。
そのスタート時点でその段階における自分自身を受け入れることができなければ、健全な創作活動が継続できないばかりか、進むべき方向性や生産的サイクルから逸脱してしまうことになります。
自分自身のここはこうでなければならない、あるいはここがもしこうであったらなどという、たとえ一部であっても自らの在り様を否定してしまう”ネバ・タラ”のサイクルにおいては、健全な創作活動は決して成立しえません。否定から生み出されるのは新たな否定だけであって、それはまた第三者によりさらに否定されるという否定のスパイラルを生み出し深めてしまうだけのことです。
善いところや好きなところはそのまま、悪いところや嫌いなところもそうした要素を持つその時点における自分自身としてあるがままに受け止める、つまり愛し尽くすことが第一歩なのですし、それは自ら以外のすべての他者の在り様に対しても同様であると言えます。
そして創作活動を続けていく過程において、自らと他者の在り様における悪いところや嫌いなところは改めつつ、善いところや好きなところを発展させていくことは、常に自らの内なる心の声に忠実に従うことができれば難しいことではありません。何故なら自らの内なる心の声は常に正しく、自らもそして他者をも否定するものでは決してないのですから・・・。
かつての孤高のフォトグラファーもさすらいのブルースシンガーも、そして他知り及ぶ多くの様々なアーティスト達の存在とそれぞれの在り様を、つまり絶対的価値基準に生きる人達を私はあるがままに尊重していますし、またその内の普遍的価値基準の確立を目指して相対的価値基準とのせめぎ合いに立ち向かい続ける人達を心から尊敬しています。
これまで日々自らもThe Very True Artistを志しつつ、同時にThe Very True Artistを探し続けてきましたし、これからも永々と探し求めていくことでしょう。何故ならそれこそが生きていくことに他ならないのですから・・・。
そして、すべての人々が生きることとアートの同一性を認識できたうえで、一人一人の個性を完全尊重し、そして社会性との内外における一致を目指して日々クリエイティブに生活し仕事をしていくことができる、一億総アーティストで満ち満ちた理想の社会の到来を願いつつ・・・。
第17号
▼Series (2) 〜日常の風景〜
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自分を信じる人だけが救われる Vol.12
/孤高のフォトグラファーとさすらいのブルースシンガー
/さすらいのブルースシンガー・その2
に続く